一神教と八百万の神は何が違う?神様の数だけではわからない世界の見方

「神様は一人です」

そう言われたら、どんな神様を想像するでしょうか。

では、

「神様は数えきれないほどたくさんいます」

と言われたら?

一人の神様が世界を創造した。

山にも、海にも、風にも、神様の働きがある。

なんだか、世界の仕組みそのものが違うように感じませんか?

でも、ちょっと考えてみてください。

神様が一人なのか、たくさんいるのか。それは、何を基準に決まっているのでしょうか?

そもそも、神様を数えるって、どういうことなのでしょう(笑)。

今回は、一神教と日本の「八百万の神」という考え方を比較しながら、神と自然の関係や、それぞれの宗教がどんな世界観を持っているのかを見ていきます。

さらに、同じ山や木を見ていても、なぜ人によって違う意味を感じるのか。

そとがわメソッドの視点から、人間の認識の仕組みについても考えてみましょう。

目次

一神教とは?神様が一人という考え方

一神教とは、基本的に、唯一の神を信じる宗教的な立場のことです。

代表的な宗教として、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教があります。

この三つは、アブラハムに関わる宗教的な伝統を持つことから、「アブラハムの宗教」と呼ばれています。

ただし、ここで気をつけたいことがあります。

三つの宗教は、どれも唯一神を信じていますが、同じ教義を持っているわけではありません。

神についての理解や、聖典、信仰の実践、宗教の歴史などに、それぞれ違いがあります。

では、順番に見ていきましょう。

ユダヤ教の唯一神

ユダヤ教には、「シェマ」と呼ばれる重要な信仰告白があります。

ヘブライ語聖書の『申命記』6章4節に登場するものです。

そこでは、イスラエルの神が唯一であることが語られています。

この言葉は、ユダヤ教の祈りや信仰生活の中で、非常に大切にされています。

つまり、唯一の神を信じることが、ユダヤ教の根本的な考え方の一つになっているわけです。

参考:Sefaria『申命記』6章4節

キリスト教の唯一神と三位一体

キリスト教も一神教です。

でも、ここで少し不思議なことがあります。

キリスト教では、神について、

「父」

「子」

「聖霊」

という三つの位格を語ります。

……あれ?

三つあるなら、神様も三人なのでしょうか?

そう思った人もいるかもしれません(笑)。

実は、主流のキリスト教では、三つの神を信じているわけではありません。

「父・子・聖霊」という三つの位格を区別しながら、神の本質は唯一であると信じています。

これが、キリスト教の「三位一体」という教えです。

例えば、カトリック教会の教理では、父・子・聖霊は互いに区別されますが、三つの別々の神ではないと説明されています。

もちろん、キリスト教にもさまざまな教派があり、すべての集団が同じ神学を採用しているわけではありません。

それでも、三位一体は主流のキリスト教における中心的な教義です。

ここで、最初の疑問が少し面白くなってきました。

そもそも「神様が一人」というのは、何を一つと数えているのでしょうか?

三位一体のように、単純に人数を数える感覚だけでは説明しにくい教えもあるわけです。

参考:カトリック教会のカテキズム「三位一体」

イスラム教の唯一神

イスラム教でも、神の唯一性は非常に重要な教えです。

イスラム教の聖典『クルアーン』の第112章では、神が唯一であり、ほかに比べられるもののない存在であることが語られています。

イスラム教では、神をアラビア語で「アッラー」と呼びます。

「アッラー」という名前の神様が、たくさんの神々の中に一人いるという意味ではありません。

唯一の神を指すアラビア語の呼び方です。

イスラム教では、神の唯一性を「タウヒード」と呼び、信仰の中心的な考え方として大切にしています。

参考:クルアーン第112章

一神教は、単に「神様が一人」では説明しきれない

こうして三つの宗教を見てみると、あることに気づきます。

どれも唯一神を信じています。

でも、その神についての理解や、神と人間の関係をどう考えるのかには違いがあります。

つまり、「一神教」という言葉は共通していても、その中身まで全部同じというわけではないのです。

そもそも、唯一の神とはどんな存在なのか。

世界とどんな関係にあるのか。

人間は、その神とどのように関わるのか。

そうしたことも含めて、一つの信仰体系になっているわけです。

では、神様が世界に一人だけいると考えると、自然はどのようなものになるのでしょうか。

一神教では、神と自然はどんな関係にある?

例えば、目の前に大きな山があるとします。

木々が生い茂り、川が流れ、いろいろな生き物が暮らしています。

そんな山を見て、一神教を信仰する人は、何を感じるのでしょうか。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教には、世界が唯一の神によって創造されたという重要な教えがあります。

例えば、ユダヤ教とキリスト教の聖典に含まれる『創世記』には、神による天地創造の物語が記されています。

そこでは、世界の始まりが神の創造と結びつけられています。

山も、海も、空も、自然界のあらゆるものも、神が創造した世界の一部として理解されるわけです。

ここで大切なのが、創造する神と、創造された自然との関係です。

多くの一神教の伝統では、山そのものを唯一神と同じ存在として扱うわけではありません。

しかし、だからといって自然を大切にしないという意味でもありません。

自然の美しさに神の働きを感じたり、創造された世界に感謝したりする信仰のあり方もあります。

つまり、

「山そのものに神聖さを見いだす」

ということと、

「山を創造した神に神聖さを見いだす」

ということには違いがあります。

同じ山を見ていても、神との関係をどう理解するかが異なるわけですね。

八百万の神とは?日本の神道では神々がたくさんいる

では、日本の「八百万の神」という考え方はどうでしょう。

まず、「八百万」は「やおよろず」と読みます。

800万。

数字だけを見ると、ものすごい人数……いや、神様の数ですね(笑)。

でも、八百万の神という言葉は、神様が正確に800万柱いるという意味ではありません。

非常に多いこと、数えきれないほどたくさんあることを表す言葉です。

神道では、山の神、海の神、風の神、火の神など、さまざまな神々が信仰の対象になってきました。

自然現象だけではありません。

農業や漁業など、人々の暮らしに関わる神々もいます。

さらに、地域に関わる神々や、祖先の御霊、歴史上の人物などが神として祀られることもあります。

神社本庁では、神道について、日本人の暮らしや自然との関わりの中から生まれた信仰として説明しています。

例えば、山。

山は、そこに暮らす人々に水や木材などの恵みをもたらします。

一方で、崩落や洪水など、人間にとって恐ろしい自然の力とも関わっています。

そうした自然の力に、畏れや敬意を感じる。

そこに神々の働きを見いだす。

そして、神聖なものとして祀る。

そうした信仰のあり方が、日本には伝わってきました。

もちろん、神道のすべての信仰を「自然に神がいる」という一言で説明できるわけではありません。

神話に登場する神々もいれば、地域の歴史や人々の暮らしと深く結びついた神々もいるからです。

参考:神社本庁「神道とは」

山や木そのものが神様なの?

例えば、大きな岩や木を見たとします。

私たちは普段、それを自然物として認識します。

でも、神道の信仰では、そうした岩や木を神聖なものとして扱う場合があります。

御神木(ごしんぼく)という言葉を聞いたことはありませんか?

神社の境内にある大きな木が、御神木として大切にされていることがあります。

その木を、神が宿るものとして捉えたり、神聖な存在として敬ったりする信仰があります。

ただし、すべての木が同じ意味で神とされるわけではありません。

何が神聖なものとして祀られているのかは、地域や神社の由来によって異なります。

そして、その由来を調べてみると、昔からその土地に暮らしてきた人々の生活や歴史が見えてくることもあります。

神社によって祀られている神様が違うのはなぜ?

日本には、さまざまな神社があります。

例えば、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る神社。

稲荷神を祀る神社。

地域の氏神様を祀る神社。

祀られている神様が違うのは、それぞれの神社に異なる歴史や信仰の背景があるからです。

一つの神社に複数の神々が祀られていることもあります。

反対に、同じ神様が全国各地の神社で祀られていることもあります。

つまり、

「山には山担当の神様が一人」

「海には海担当の神様が一人」

という単純な役割分担ではないのです。

神様の担当部署が決まっているような話ではないわけですね(笑)。

神々の関係や、祀られるようになった経緯、地域との結びつきなど、さまざまな歴史があります。

参考:神社本庁「神社について」

天照大御神は、ほかの神々と何が違うの?

日本の神話には、たくさんの神々が登場します。

その中でも、天照大御神は特別に尊い神として位置づけられています。

天照大御神は、皇室の祖先神とされ、伊勢神宮の内宮に祀られています。

では、特別に尊い神がいるなら、ほかの神々は必要ないのでしょうか。

もちろん、そのような単純な話ではありません。

天照大御神が特別な位置づけにあることと、ほかの神々への信仰があることは両立しています。

こうして見てみると、神道でも神々の関係や位置づけは一様ではありません。

たくさんの神様がいるということと、すべての神様が同じように扱われていることは別なのです。

参考:神社本庁「伊勢神宮と全国の神社の関わり」

一神教と八百万の神は、何が違う?

ここまで見てきた内容を、一度整理してみましょう。

比較する点一神教日本の八百万の神
神の捉え方唯一の神への信仰が中心多様な神々への信仰
自然との関係創造主と創造された世界という理解が重要自然の中に神聖さや神々の働きを見いだす
信仰の伝統聖典や教義が重要な役割を持つ神話、祭祀、地域の伝統などが重要
代表例ユダヤ教、キリスト教、イスラム教神社を中心とした日本の神道

ただし、これは大まかな比較です。

一神教の中にも、宗教や教派による違いがあります。

神道も、時代や地域によって多様な形を持ってきました。

すべての信仰を、この表だけで説明できるわけではありません。

それでも、こうして比べてみると、一つ興味深いことがあります。

どちらも、私たちが生きている世界と、神との関係について説明しているのです。

山がある。

海がある。

風が吹く。

人が生まれ、自然と関わりながら生活している。

その世界を、神とどのような関係にあるものとして理解するのか。

そこに違いがあります。

一神教と多神教の違いは、神様の数だけ?

一神教と多神教。

言葉だけを見れば、

「神様が一人」

「神様がたくさん」

という違いに見えますよね。

でも、ここまで見てきたように、実際の信仰はもう少し複雑です。

例えば、キリスト教には三位一体という教えがあります。

一方、神道では多くの神々を祀りながら、天照大御神を特別に尊い存在として位置づける伝統もあります。

そして、神道の神々にも、自然現象に関わる神や、歴史上の人物が祀られた神など、さまざまな背景があります。

つまり、「一神教」「多神教」という分類は、宗教を理解するうえで役立ちます。

でも、分類の名前だけで、その宗教のすべてがわかるわけではないのです。

これは、私たちの日常にも似たことがありますよね。

例えば、「日本人」と一言で説明しても、考え方も性格も暮らし方も、人によって違います。

「日本人」という分類は間違いではありません。

でも、その一言だけで、その人のすべてを理解できるわけではないのです。

宗教の分類についても、似たことが言えそうです。

同じ山でも、神様との関係が違う?

ここで、ちょっと想像してみてください。

目の前に、とても美しい山があります。

山頂には雲がかかり、山の斜面には木々が広がっています。

その山を見て、ある人は、

「この山には神様が宿っている」

と感じたとします。

別の人は、

「神様が創造した、美しい自然だ」

と感じたとします。

また別の人は、

「長い年月をかけて形成された地形なんだな」

と考えるかもしれません。

さて、ここで何が起きているのでしょうか。

三人とも、同じ山を見ています。

でも、その山をどのようなものとして理解しているのかが違います。

神聖な山。

神が創造した山。

地質学的に形成された山。

どれも、目の前の山についての説明です。

もちろん、これらが必ず互いに排除し合うわけではありません。

地質学を学びながら、山を神聖なものとして大切にする人もいるでしょう。

唯一神を信仰しながら、自然の成り立ちを科学的に研究する人もいます。

ただし、信仰に基づく説明と、科学的な研究に基づく説明では、根拠や確かめ方は異なります。

ここで注目したいのは、何を見ているのかということです。

目の前にある山と、その山について私たちが持っている説明は、同じではありません。

私たちは、目の前にあるものを見ながら、同時に、それについての知識や意味も受け取っていることがあるのです。

神道と仏教が日本で混ざり合ったのも面白い

ところで、日本の宗教史を見ていると、さらに面白いことがあります。

神道と仏教の関係です。

現在の私たちは、神社とお寺を別の場所として考えることが多いですよね。

神社には神様。

お寺には仏様。

なんとなく、そんなふうに分けて考えている人もいるかもしれません。

でも、日本では長い年月にわたって、神道と仏教が密接に関わってきました。

例えば、神社の境内に仏教の施設が設けられたり、仏が日本の神々の姿となって現れたと説明されたりすることがありました。

こうした歴史を「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」と呼びます。

仏様が神様の姿になって現れる?

神仏習合の中には、「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」という考え方があります。

仏や菩薩が、人々を救うために、日本の神々の姿となって現れるという理解です。

つまり、神様と仏様は、必ずしも別々の存在として説明されていたわけではないのです。

……ここでも、世界の見方が広がってきましたね(笑)。

もちろん、神道と仏教が完全に一つになったわけではありません。

歴史の中には、両者の違いや対立もありました。

それでも、長い年月にわたって、さまざまな形で結びついてきたのです。

神社とお寺が分かれたのはいつ?

では、どうして現在は、神社とお寺を別々に考えることが多いのでしょうか。

その背景の一つに、明治時代の神仏分離政策があります。

1868年、明治政府は神社から仏教的な要素を取り除くため、一連の政策を進めました。

国立公文書館にも、1868年3月の「神仏判然令」に関する資料が残っています。

それまで同じ場所にあった神と仏に関する施設や信仰のあり方が、政策によって分けられていったのです。

この過程では、仏教施設や仏像が被害を受ける廃仏毀釈の動きも起こりました。

つまり、現在の神社とお寺の区別を、そのまま昔の日本に当てはめることはできません。

私たちが当たり前だと思っている分類も、歴史の中で変化してきたのです。

参考:国立公文書館「神仏分離令が出される」

神仏習合については、こちらの記事でさらに詳しく紹介しています。

→ 神仏習合とは?神様が大仏を拝んだ時代、神社とお寺はどうつながっていた?

「山には神様がいる」と聞いたら、どう感じる?

さて、ここからは、そとがわメソッドの視点で考えてみましょう。

例えば、誰かが、

「山には神様がいるんですよ」

と言ったとします。

そのとき、どう感じるでしょうか。

「そうだよね。自然には神様が宿っていると思う」

と感じる人もいるでしょう。

「へえ、そういう考え方もあるんだ」

と思う人もいるかもしれません。

一方で、

「神様は一人しかいないはずなのに、どういうこと?」

と疑問を感じる人もいるでしょう。

あるいは、

「山は地形なのに、なんで神様がいることになるんだろう?」

と考える人もいるかもしれません。

みんな、同じ言葉を聞いています。

でも、反応は違います。

さて、何が違うのでしょうか。

そとがわメソッドでは、まず出来事と、その出来事に付けられた意味を分けて考えます。

この場面で実際に起きた出来事は、

「ある人が『山には神様がいる』と言った」

ということです。

そして、その言葉を聞いた人は、自分の知識や信仰、経験などに基づいて意味を受け取ります。

その結果、納得したり、不思議に感じたり、違和感を覚えたりすることがあります。

ここで大切なのは、宗教的な主張の真偽を、個人の心理的な反応だけで判断しようとしているわけではないということです。

神が実在するのかという問いと、その説明を聞いた人の中で何が起きているのかという問いは、別です。

そとがわメソッドでは、後者の認識と反応の仕組みを観察します。

「理解できない」が「間違っている」に変わるとき

ここで、もう一つ面白いことがあります。

例えば、自分がずっと知っていた神様の考え方とは、まったく違う説明を聞いたとします。

最初は、

「えっ、どういうこと?」

と思うかもしれません。

ところが、そのうち、

「そんな考え方はおかしい!」

と思い始めることがあります。

さて、ここで何が変わったのでしょう。

最初は、理解できなかっただけです。

でも、いつの間にか、相手の考え方を間違っていると判断しています。

「私には理解できない」と「相手が間違っている」は、同じことでしょうか?

もちろん、ある主張について、根拠や論理を検討することはできます。

実際に間違っている説明がある場合もあるでしょう。

ただし、「自分には理解できない」ということだけで、その説明が間違っていると決まるわけではありません。

自分の知らない情報があるのかもしれません。

相手の説明が足りないのかもしれません。

そもそも、お互いに違う前提から話しているのかもしれません。

例えば、一神教を信仰する人が「神」という言葉を使うときと、神道を信仰する人が「神」という言葉を使うとき。

同じ「神」という言葉を使っていても、その概念や前提が異なる場合があります。

同じ言葉を使っているから、同じものについて話しているとは限らないのです。

これって、宗教に限らず、日常会話でもよく起きることですよね。

話がかみ合わなくて、よくよく聞いてみたら、そもそも言葉の意味が違っていた。

そんな経験はありませんか?(笑)

→ 話がかみ合わないのはなぜ?「前提」が違うと結論まで変わる理由

自分の考えと違うものを、なぜ否定したくなるの?

では、さらにもう一つ考えてみましょう。

長いあいだ、自分が正しいと信じてきた考え方があったとします。

それとは、まったく違う考え方に出会いました。

すると、なんだか落ち着かなくなることがあるかもしれません。

「そんなはずはない」

「今までの私の考えはどうなるの?」

「そんな考えを認めたら、自分が間違っていたことになるじゃないか」

そんな反応が生まれることもあるでしょう。

ここで、そとがわメソッドでは、もう一つ問いを向けることができます。

何を守ろうとして、その考え方を否定する必要が生まれたのでしょうか?

長いあいだ大切にしてきた信念でしょうか。

これまでの経験でしょうか。

自分が正しいと感じられる安心でしょうか。

もちろん、実際に何が関わっているかは、人によって違います。

また、異なる考え方に反対することが、すべて防衛反応によるものだというわけではありません。

ただ、もし強い不安や怒りが生まれていたなら、その反応にはどんな意味づけが関わっていたのかを観察できます。

例えば、

「その考え方が正しいなら、自分が間違っていたことになる」

という意味が生まれていたとします。

さらに、

「間違っている自分は駄目だ」

という意味が加わっていたら、どうでしょう。

最初は、ただ自分と違う考え方に出会っただけでした。

でも、いつの間にか、自分自身の価値にまで話が広がっています。

その結果、自分を守るために、相手の考え方を否定する必要が生まれることもあるかもしれません。

そとがわメソッドで観察するのは、こうした認識や防衛反応が成立する仕組みです。

そして、何かを守ろうとする反応が起きていたとしても、その反応自体を否定する必要はありません。

なぜ、その反応が必要になったのかを知ることができるからです。

理解することと、信じることは同じなの?

ここで、ちょっと面白い質問です。

例えば、唯一の神を信仰する人が、日本の八百万の神について学ぶとします。

その人は、八百万の神という考え方を理解するために、自分の信仰をやめなければならないのでしょうか。

必ずしも、そうではありませんよね。

「私は唯一の神を信じている」

という立場のまま、

「日本では、多くの神々を祀る信仰があるんだな」

と理解することはできます。

反対に、神道の信仰を持つ人が、一神教について学ぶこともできます。

そして、それぞれの宗教について知識を得たからといって、必ずその教えを信じる必要があるわけではありません。

ここで、いくつかのことを分けてみましょう。

理解することと、信じること。

説明を知ることと、同意すること。

同意しないことと、相手を否定すること。

これらは、同じではありません。

ところが、私たちはときに、こうしたものを一緒にして考えてしまうことがあります。

「理解したら、賛成しなければいけない」

「賛成できないなら、相手は間違っている」

「違う考え方を認めたら、自分の考え方が否定される」

そんなふうに感じることもあるかもしれません。

でも、実際には、

「私はそう考えない。でも、あなたがどうしてそう考えるのかは知りたい」

という関わり方もできます。

違いを知ることと、違いをなくすことは別なのです。

世界の見方が違うことと、世界そのものが違うこと

さて、ここで最初の山の話に戻りましょう。

目の前に大きな山があります。

ある人は、

「神様が宿る山だ」

と感じます。

別の人は、

「神が創造した山だ」

と感じます。

そして別の人は、

「長い年月をかけてできた地形だ」

と考えます。

目の前に見えている山は、同じです。

でも、それぞれの人が、その山について受け取っている意味は異なります。

もちろん、その解釈が形而上学的に正しいかどうかという問題は、別に残ります。

ただ、同じ対象について、人によって異なる説明が生まれることはあります。

ここで、もう一つ身近な例を使ってみましょう。

あなたが散歩をしていると、大きな木がありました。

「ずいぶん立派な木だな」

と思って通り過ぎました。

ところが、後から、

「その木は、この地域で何百年も大切にされてきた御神木なんですよ」

と教えられたとします。

さて、次にその木を見たとき、何か変わるでしょうか。

「へえ、そんな歴史があったんだ」

と興味が湧くかもしれません。

「大切にされてきた木なんだな」

と、少し特別に感じるかもしれません。

でも、ここで確認してみます。

木そのものは、何も変わっていません。

その木について知っている情報が増えたのです。

そして、その情報に意味を感じたことで、木の受け取り方が変わったのかもしれません。

面白いですよね。

ところで、最初に「ただの木だ」と思った場合も、それはすでに一つの意味づけだったのではないでしょうか。

何も意味を付けていないつもりでも、「ただの」という評価が加わっていた可能性があります。

私たちは、世界をそのまま見ているつもりでも、いつの間にか、そこにいろいろな意味を付けていることがあるのです。

そして、その意味によって、感じ方や行動が変わることもあります。

よくある質問

Q. 一神教と多神教の違いは何ですか?

一神教は唯一の神への信仰を中心とする立場で、多神教は複数の神々への信仰を認める立場です。

ただし、神の性質や自然との関係、宗教の歴史や実践などにはさまざまな違いがあり、神様の数だけですべてを説明できるわけではありません。

Q. 日本の八百万の神は、本当に800万いるのですか?

「八百万」は、正確に800万という数字を数えたものではありません。

非常に多いこと、数えきれないほど多いことを表す言葉です。

日本の神道では、自然や暮らし、地域の歴史などに関わる、多様な神々が祀られてきました。

Q. キリスト教は三位一体なのに、なぜ一神教なのですか?

主流のキリスト教では、父・子・聖霊という三つの位格を区別しながら、神の本質は唯一であると信じています。

三つの別々の神を信じているという意味ではありません。

Q. イスラム教のアッラーは、キリスト教の神様とは別なのですか?

アッラーは、アラビア語で神を表す言葉です。

イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教とアブラハムに関わる宗教的な伝統を共有しています。

ただし、それぞれの宗教には神についての教義や理解の違いがあります。

Q. 神道は多神教なのですか?

多くの神々を祀るという点で、多神教として説明されることがあります。

ただし、自然への信仰、神話、地域の祭祀、祖先への信仰など、多様な特徴があり、「多神教」という言葉だけでは十分に説明できません。

Q. 日本人は神道と仏教の両方を信じているのですか?

日本では長い歴史の中で、神道と仏教が密接に関わってきました。

神仏習合という形で、両方の信仰が結びついていた時代もあります。

ただし、現在の日本人がどのような信仰を持つかは個人によって異なり、全員が両方を信じているわけではありません。

Q. そとがわメソッドでは、どの宗教が正しいかを判断するのですか?

いいえ。

そとがわメソッドでは、ある考え方に触れたとき、自分の中でどのような意味づけが生まれ、どんな反応が起きているのかを観察します。

信仰の真偽を、心理的な反応だけで判定するものではありません。

まとめ|神様の数が違うと、世界の見方も違う?

一神教と八百万の神。

言葉だけを見ると、神様が一人なのか、たくさんいるのかという違いに見えます。

でも、実際に調べてみると、神とはどんな存在なのか、自然とどのような関係にあるのか、どんな歴史の中で信仰されてきたのかという違いもありました。

そして、同じ宗教の中にも、多様な考え方があります。

一方で、私たち自身の中でも面白いことが起きています。

同じ山を見ていても、感じることが違う。

同じ言葉を聞いても、受け取り方が違う。

同じ木でも、その歴史を知った途端に、特別なものに見えてくることがある。

では、その違いは、どこから生まれるのでしょうか。

自分が知っていること。

当たり前だと思っていること。

大切にしている価値観。

そして、そこに付けた意味。

いろいろなものが関わっていそうですよね。

そとがわメソッドでは、こうした人間の認識と反応の仕組みを観察します。

何かを信じている自分を否定する必要もありません。

異なる考え方を持つ相手を、理解できないというだけで否定する必要もありません。

もちろん、意見が違うことはあります。

何が事実なのかを検討することもできます。

そのうえで、

「私にはそう見えている。では、相手にはどう見えているんだろう?」

と考えてみることもできます。

そうして自分の認識の仕組みを見ていくと、いつもと同じ世界にも、まだ知らない面白さがありそうです。

世界には、いろいろな見方があります。

でも、それを見ている人間そのものも、なかなか不思議なんですよね(笑)。

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参考資料


同じ世界を見ているのに、なぜ人によって見え方が違うの?

山は山。木は木。

でも、それを見たとき、私たちの中にはいろいろな意味が生まれます。

「神聖なもの」

「美しい自然」

「ただの木」

「大切に守られてきた場所」

その意味によって、感じ方や行動まで変わることがあります。

そして、こうしたことは宗教だけでなく、日常生活でも起きています。

人間関係でも、仕事でも、自分自身に対しても。

私たちは、出来事に意味を付け、その意味に反応し、さらに自分の反応にも意味を付けることがあります。

そとがわメソッドでは、この仕組みを身近な例から順番に見ていきます。

何かを無理に変えたり、自分を正しい考え方に合わせたりするためではありません。

自分がどんなふうに世界を受け取り、どんな意味を付けているのか。

その仕組みを知るためです。

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この記事を書いた人

そとがわメソッド開発者。心理学・自己啓発・潜在意識などを学んでも自己否定が終わらなかった自身の経験から、「自分を変える前に、何が起きているのかを見る」そとがわメソッドを開発。著書『自分を否定しない練習』。
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