「普通、こうするでしょ?」
そう言われて、何が普通なのか分からなくなったことはありませんか。
あるいは、自分の方が「普通はそうじゃない?」と思ったこともあるかもしれません。
約束の時間には何分前に着いているべきか。
連絡が来たら、どれくらいで返信するものなのか。
人に何かをしてもらったら、どこまでお礼をするのが当たり前なのか。
考えてみると、私たちは日常のあちこちで「普通」を使っています。
ところが、その普通が人によって違う。
そして不思議なことに、お互いが自分の方を普通だと思っている場合もあります。
あなたにも、相手の行動を見て「どうしてそんなことをするんだろう?」と思った経験はないでしょうか。
そのとき、自分が当たり前だと思っていることも、相手にとっては当たり前ではないかもしれないと考えたでしょうか。
人間はなぜ、自分の考えをこれほど自然に正しいものとして感じるのでしょう。
「普通」は、どこで決まっているのだろう?
たとえば、待ち合わせの約束をしたとします。
一人は、約束の10分前には到着しているのが普通だと思っている。
もう一人は、約束した時間までに到着すれば問題ないと思っている。
二人とも、自分の基準に従って行動しています。
でも、10分前に来た人は、相手が約束の時間ちょうどに現れたことを見て、
「時間に余裕を持って来ないなんて」
と思うかもしれません。
一方、時間ちょうどに来た人は、
「約束の時間には間に合っているのに」
と思うかもしれません。
ここで実際に起きた出来事は、約束の時間と、それぞれが到着した時間です。
ところが、そこには別のものが加わっています。
「10分前に到着するべき」
「時間までに来れば十分」
という、それぞれの基準です。
そして、自分の基準から相手を見ると、相手の行動が間違っているように見えることがあります。
自分にとって当たり前の基準は、普段、基準であること自体を意識されにくいのです。
自分の考えに合う情報を集めてしまう仕組み
心理学には「確証バイアス」という考え方があります。
これは、自分がすでに持っている考えや予想を裏づける情報に注目し、反対の情報を軽く扱いやすい傾向のことです。
たとえば、「あの人はいい加減な人だ」と思っていたとします。
その人が少し連絡を遅らせると、
「やっぱりいい加減だ」
と思う。
でも、別の日に丁寧な対応をしていたとしても、
「今回はたまたまでしょ」
と受け取るかもしれません。
一度作った印象に合う出来事は、その印象を裏づける証拠になりやすい。
反対に、印象と合わない出来事は、例外として扱われることがあるのです。
すると、本人にとっては「実際に何度もそういうことがあった」という経験が積み重なっていきます。
だから、ますます自分の判断に確信を持つことがあります。
ただし、これは自分の考えが必ず間違っているという意味ではありません。
実際に相手の対応に問題がある場合もあります。
大切なのは、何を見て、何を重く扱い、どのような結論に至ったのかという過程です。
同じ出来事を見ても、別の現実を経験している
では、少し場面を変えてみましょう。
職場で、ある人が別の人にこう言いました。
「この書類、今日中にお願いします」
言われた人は、「今日中なら夕方まででいいんだな」と受け取りました。
でも、言った人は「できるだけ早く、今日の仕事が終わる前には欲しい」と考えていたとします。
夕方になって書類が届いたとき、一方は約束を守ったと思い、もう一方は遅いと感じる。
二人が聞いたり言ったりした言葉は同じでも、そこに加えた意味が違っていたのです。
ここで面白いのは、どちらも自分の理解を自然なものとして経験していた、というところです。
「今日中」という言葉から何を想定するかは、状況や経験、職場の習慣などによって変わり得ます。
でも、普段の私たちは、
「私はこの言葉に、こういう意味を加えた」
とはあまり考えません。
最初から、そういう意味の言葉だったように感じることがあります。
以前の記事、同じことを言われても、傷つく人と気にならない人がいるのはなぜ?でも、言葉と受け取り方の違いを扱っています。
今回の例で考えたいのは、感情の違いだけではありません。
自分が理解した内容を、相手も同じように理解しているはずだと思うことがあるという点です。
理解できないことは、間違っていることなのか?
誰かの話を聞いて、
「どうしてそう考えるの?」
と思うことがあります。
理由を聞いてみても、やっぱり理解できない。
そんなとき、どうなるでしょう。
「私には分からないけど、この人はそう考えるんだな」
と思うこともできます。
一方で、
「そんな考え方はおかしい」
と思うこともあります。
この二つは、似ているようで違います。
前者は、自分が理解できていないという状態です。
後者は、相手の考え方に対する評価です。
理解できないことと、間違っていることは、本当に同じでしょうか。
もちろん、相手の主張が事実に反していたり、誰かに害を与えるものだったりする場合には、その内容を検討し、必要に応じて指摘することもできます。
ただ、好みや価値観、生活上の基準が違うだけなら、理解できないことがそのまま間違いの証明になるわけではありません。
ここでも、出来事と自分の判断を分けて考える余地があります。
「相手はこう言った」
「私はその理由が分からなかった」
「だから、おかしいと思った」
こうして並べてみると、最後の「おかしい」は相手の言葉そのものではなく、自分の中で生まれた評価だと分かります。
「正しいと思うこと」が問題なのではない
では、自分の考えを正しいと思わない方がいいのでしょうか。
そんなことはありません。
何かを判断するとき、自分の知識や経験を使うのは自然なことです。
自分なりの基準がなければ、選ぶことが難しくなる場面もあるでしょう。
また、事実に基づいて正しいと判断できることもあります。
ここで問題にしたいのは、正しいと思うこと自体ではありません。
自分が正しいと感じているとき、その判断がどうやって生まれたのかを見られるかどうかです。
たとえば、
「時間には余裕を持って来るべきだ」
と思っている。
その考えを持つこと自体は自由です。
でも、それが自分の経験や価値観から生まれた基準なのか、誰にとっても守るべきルールなのかは、別の話です。
その違いを見ずにいると、自分の基準に合わない人が、次々と問題のある人に見えてくることがあります。
以前の「普通はこうするでしょ」が苦しい|普通・常識・当たり前で義務を増やしていませんかでは、こうした基準が義務になっていく場合を扱っています。
自分の「普通」を、少しだけ観察してみる
ここで、自分の普段の生活を一つ思い出してみてください。
誰かに対して、
「普通、そんなことしないでしょ」
「普通は先に連絡するでしょ」
「普通、分かるでしょ」
と思った場面はないでしょうか。
もし思い当たることがあれば、少しだけ中身を見てみます。
相手は、実際には何をしたのでしょう。
そして、あなたは相手にどうしてほしいと思っていたのでしょう。
その期待は、相手と共有した約束だったのでしょうか。
それとも、自分の中では当たり前だったことでしょうか。
これは、相手の行動を許したり、自分の考えを捨てたりするための質問ではありません。
相手が約束を破っていたのなら、そのことは確認できます。
自分が大切にしたい基準なら、その基準を持ち続けてもいいのです。
ただ、
「相手がしたこと」
「自分が期待していたこと」
「その期待から見た相手への評価」
を、一つのものとして扱わなくてもいい。
その違いが見えると、相手に何を伝えるのか、何を確認するのか、どんな距離を取るのかも、改めて選ぶ余地が生まれます。
人間は、自分が作った意味を「現実」として経験する
自分の考えを正しいと思う。
相手の考えが理解できない。
同じ出来事なのに、二人の受け取り方が違う。
これらは、特別な人だけに起きることではありません。
私たちは、目の前の出来事を受け取るとき、自分の経験や予測、価値観などを通して意味を与えています。
そして、その意味がついた状態を、自分の現実として経験することがあります。
だから、自分の中では自然で明らかなことが、ほかの人にはそうではない場合があるのです。
考えてみると、少し不思議ではないでしょうか。
自分にとって当たり前だったものが、実は自分の中で作られた判断だったかもしれない。
それに気づいたからといって、正しいことと間違っていることを区別できなくなるわけではありません。
むしろ、何を根拠に判断しているのかが見えるようになります。
そとがわメソッドでは、こうした出来事と意味づけ、そこから生まれる感情や行動を分けて、人間が現実を経験する仕組みを見ていきます。
自分が見ている現実の仕組みを知りたい方へ
「自分の普通」が、相手にとっても普通とは限らない。
知識としては、すでに知っていることかもしれません。
それでも、実際に相手の行動を見たときには、
「なんでそんなことをするんだろう」
と感じることがあります。
なぜ、分かっているはずのことが、実際の場面では見えなくなるのでしょう。
そとがわメソッドの無料講座では、出来事とそこについた意味、予測、感情や身体の反応を分けながら、自分の中で何が起きているのかを見ていきます。
よくある質問
Q. 自分が正しいと思うのは、確証バイアスのせいですか?
必ずしもそうとは限りません。
確証バイアスは、自分の考えを支持する情報に注目しやすい傾向を説明するものです。
ただ、自分が正しいと判断する理由には、知識や経験、明確な根拠などもあります。
自分の判断をすべてバイアスとして否定する必要はありません。
Q. 人によって普通が違うなら、正しいことは何もないのでしょうか?
そういう意味ではありません。
約束した内容や客観的に確認できる事実、法律、安全上の基準などは、個人の好みとは分けて検討できます。
ここで扱っているのは、個人の基準を無意識に誰にでも当てはめることがある、という仕組みです。
Q. 自分と違う考え方を理解できないのは悪いことですか?
理解できないこと自体を、悪いと判断する必要はありません。
相手の話を聞いても、納得できない場合はあります。
ただ、理解できなかったという状態と、その人が間違っているという判断は分けられます。
理解できなくても、違いがあることは認識できます。
Q. 相手が実際に間違っている場合はどうすればいいですか?
事実や約束、実際の影響を確認したうえで、必要な指摘や対応を選べます。
そとがわメソッドは、相手の行動を何でも受け入れることや、自分の判断を放棄することを求めるものではありません。
出来事と判断を分けることは、状況をより具体的に見るためのものです。
関連記事
まずは無料講座から
自分が当たり前だと思っていること。
相手を見て「おかしい」と感じること。
自分の考えが正しいと思えること。
その一つひとつが、どのように生まれているのかを普段から意識することは、あまりないかもしれません。
そとがわメソッドは、正しい考え方を身につけるためのものではありません。
自分が経験している現実が、どのような仕組みで出来上がっているのかを見るものです。
自分の考えを捨てる必要も、誰かの考えに合わせる必要もありません。
まずは、自分の中で何が起きているのかを知るところから始められます。
参考資料


そとがわメソッド開発者。心理学・自己啓発・潜在意識などを学んでも自己否定が終わらなかった自身の経験から、「自分を変える前に、何が起きているのかを見る」そとがわメソッドを開発。著書『自分を否定しない練習』。
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