自己肯定感を上げようと思って、
自分を褒めてみた。
できたことを書き出してみた。
「そのままの自分でいい」と考えてみた。
前より自分を責めなくなった気もする。
でも、何か失敗したり、人から否定されたように感じたりすると、
「やっぱり私はダメだ」
「全然変わってない」
「また自己肯定感が下がった」
と思ってしまう。
そんなことはないでしょうか。
自己肯定感について学んだことが間違っていた、という話ではありません。
自分を肯定する考え方や、自分を大切にする方法で楽になることもあります。
ただ、それでも何度も同じところへ戻るように感じるなら、
「もっと自己肯定感を上げるにはどうすればいい?」
の前に、
そもそも、どこで「また戻った」ということになったのか。
そこを分けて見てみてもいいかもしれません。
自己肯定感が上がったはずなのに、また下がったように感じる
たとえば、
仕事で自分なりにできていた。
最近は前より自分を認められている気もしていた。
そんなとき、相手から
「ここ、違います」
と言われたとします。
ここで起きた出来事は、
相手に「ここ、違います」と言われた。
です。
でも、そのあと、
「間違えた」
「ちゃんとできなかった」
「評価が下がったかもしれない」
「やっぱり私はダメだ」
「自己肯定感が上がっていたと思ったのに、また元に戻った」
と広がっていくことがあります。
本人にとっては、
「自己肯定感が下がった」
ことまで、ひとまとまりの出来事のように感じるかもしれません。
でも、分けて見ると、
最初からそこにあったのは、
相手に「ここ、違います」と言われたこと
だけです。
そのあとに、いろいろな意味や予測や判断が加わっています。
「失敗した」と「自分の価値が下がった」は同じこと?
何かがうまくいかなかったとき、
落ち込むことはあります。
恥ずかしく感じることもあります。
腹が立つこともあるかもしれません。
そう反応すること自体を、なくす必要はありません。
ただ、
「間違えた」
ということと、
「私はダメだ」
ということは、同じではありません。
さらに、
「私はダメだと感じた」
ことと、
「自己肯定感がまた低くなった」
という判定も、同じではありません。
いくつかの出来事や反応が重なったあとで、
ひとつの完成した現実として
「私はまた元に戻った」
と経験している可能性があります。
自分を受け入れようとしても、できているかどうかを何度も確認してしまう場合は、自己受容できないのはなぜ?「自分を受け入れよう」としても自分を責めてしまうときでも近い流れを扱っています。
自己肯定感が、新しい「合格基準」になることがある
自己肯定感という言葉を知ることで、
自分を見る新しい視点が増えます。
「私は自分を否定しすぎていたかもしれない」
と気づくこともあります。
それ自体は、新しい見方です。
でも、その言葉がいつの間にか、
今の自分がちゃんとできているかを判定する基準
になることもあります。
落ち込んだ。
「まだ自己肯定感が低い」
人の言葉が気になった。
「まだ他人の評価に左右されている」
自分を責めた。
「全然自分を認められていない」
すると、
自己肯定感という知識が、
自分を理解するための言葉ではなく、
「今の私は合格か、不合格か」を測るもの
になっていきます。
そして「低い」と判定されるたびに、
また上げる必要が生まれます。
「また戻った」は、いつ決まった?
ここで見てみたいのは、
自己肯定感が本当に上がったのか、下がったのかを採点することではありません。
たとえば、
相手に「ここ、違います」と言われた。
胸がざわついた。
「失敗した」と思った。
「評価が下がったかもしれない」と考えた。
「やっぱり私はダメだ」と感じた。
そして、
「また自己肯定感が下がった」
と判断した。
この流れがあったとします。
では、
「元に戻った」と決まったのは、どこでしょうか。
最初の出来事の中には、
「自己肯定感が下がった」
という情報はありません。
反応が起き、その反応を見たあとで、
「これは自己肯定感が低い証拠だ」
と意味づけている可能性があります。
自分を肯定する方法をやめる必要はない
自分を褒める。
できたことを見る。
休む。
自分に優しい言葉をかける。
そういったことをやめる必要はありません。
役に立つなら、使って構いません。
ただ、
それをやっても苦しさが繰り返すときに、
「まだ足りない」
「もっとちゃんとやらなきゃ」
「私は自己肯定感を上げられていない」
と、新しい改善項目を増やし続ける必要があるとは限りません。
変わりたいのに変われないのはなぜ?何度決意しても元に戻る理由でも扱っているように、「また戻った」と感じるときには、意志や知識だけでは見えにくい反応が先に動いていることがあります。
「自己肯定感を上げる」より先に見られること
もし、
「もっと自己肯定感を上げなきゃ」
と思ったとき、
すぐにその考えをやめなくても大丈夫です。
代わりに、
少しだけ手前を見ます。
何があった?
そこに何を足した?
何が起こると思った?
身体や感情はどう反応した?
そのあと、何をしようとした?
そして、
なぜ今、「自己肯定感を上げる必要」が生まれたんだろう?
自己肯定感を上げることを否定するのではなく、
自己肯定感を上げなければならない自分が、
どんな流れの中で出来上がったのかを見る。
すると、
「自己肯定感が低い私」
という完成品だけではなく、
そこに至る途中の処理が見えてきます。
学んだ知識が増えるほど「直すところ」が増えてしまう感覚がある場合は、学ぶほど自分を責めてしまうのはなぜ?知識が増えるほど苦しくなるときも近いテーマです。
自己肯定感が高い自分にならなくても、見ることはできる
そとがわメソッドでは、
自己肯定感が高い状態をゴールにはしていません。
落ち込むこともある。
自分を嫌になることもある。
誰かの言葉が気になることもある。
その反応があっても、
「私には今、こう見えている」
と見られる余地があれば、
反応そのものと、
反応を見たあとに作られた「私はダメ」「まだ足りない」を、
少しずつ分けて見ることができます。
自己肯定感を上げる前に、
今の自分の中で何が起きているのか。
そこから見てもいいのかもしれません。
自分についてたくさん学んできたのに、
また同じところへ戻ったように感じる。
そんなときは、
さらに新しい方法を足す前に、
出来事と、そこについた意味や予測、そこから起きた反応を分けて見てみてください。
無料講座では、「自己肯定感を上げる方法」ではなく、自分の中で現実がどう出来上がっているのかを順番に見ていきます。
よくある質問
自己肯定感を上げようとするのは良くないのですか?
良い・悪いという話ではありません。
自分を肯定する考え方や方法で楽になるなら、それを使って構いません。
ただ、それをしても何度も「また戻った」「まだ足りない」と感じるなら、さらに上げる方法を探す前に、その判定がどこで生まれたのかを見る余地があります。
本当に自己肯定感が低い人もいるのでは?
「自己肯定感が低い」という説明が役立つ場面はあると思います。
この記事では、その言葉が正しいか間違っているかを決めることを目的にしていません。
その説明を使ったあと、自分の中で何が起きているのかを見ることを扱っています。
人から否定されたら、落ち込まない方がいいのですか?
落ち込んでも構いません。
反応しない人になることが目的ではありません。
「落ち込んだ」という反応と、「だから私はダメだ」「自己肯定感が低い証拠だ」という判断を、同じものとして扱わずに見られるかどうかです。
自己肯定感の本やワークはもうやらない方がいいですか?
やめる必要はありません。
役に立つなら使って構いません。
ただ、それが「ちゃんとできる自分にならなきゃ」という新しい採点基準になって苦しくなっているなら、そのとき何が起きているのかを見ることもできます。
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自己肯定感が高いか低いかを決める前に、
何が起きて、
そこにどんな意味や予測が加わって、
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そとがわメソッド開発者。心理学・自己啓発・潜在意識などを学んでも自己否定が終わらなかった自身の経験から、「自分を変える前に、何が起きているのかを見る」そとがわメソッドを開発。著書『自分を否定しない練習』。
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