思想と事実が混ざるのはなぜ?「正しい」と思う人同士がすれ違う仕組み

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同じ会話をしているのに、話がかみ合わないのはなぜ?

「この人、話が通じないなあ」と感じたことはありませんか。こちらは事実を話しているつもりなのに、相手には「あなたの考えでしょ」と言われる。逆に、相手が当たり前のように話していることを聞いて、「それって、いつ決まったこと?」と思う。

どちらかが嘘をついているとは限りません。見たこと、そこから考えたこと、そうあるべきだと信じていることが、会話の途中で一緒になっているのかもしれません。

たとえば、こんな小さな場面を考えてみます。

「挨拶を返さなかった」は、何の話だろう

朝、職場で「おはようございます」と声をかけたのに、相手から返事がありませんでした。

Aさんは「無視された。あの人は失礼だ」と感じます。Bさんは「聞こえなかったのかな」と思います。Cさんは「体調が悪そうだった」と気になります。

三人が見聞きした出来事は似ています。ただ、そこから生まれた話は違います。

「声をかけたが返事が確認できなかった」は、状況を確かめるための記述です。「わざと無視した」は意図についての推測。「失礼だ」は、その行為をどう評価するかという判断です。

もちろん、実際に無視された可能性もあります。ここで言いたいのは「無視されたと思うのが間違い」ではなく、まだ確かめていない意図まで、見えた出来事と同じ確かさで扱っていないかということです。

「私は無視されたと感じた」と言うのも、「あの人は私を無視した」と言うのも似た文章ですが、相手との会話ではずいぶん違う働きをします。

事実・解釈・価値判断は、同じ文章に入ってくる

「事実と解釈を分けましょう」と言われると、簡単にできそうな気がします。ところが、普段の会話では、わざわざ「ここからは私の解釈です」と断ってから話す人は多くありません。

「会議で私の発言が流された。あのチームは人の意見を尊重しない」。一つの文章の中に、観察された出来事、相手の意図についての解釈、組織全体への評価が続いています。

しかも、ひとたび「尊重しないチームだ」と感じると、その後の出来事もその意味で見えやすくなるかもしれません。発言が拾われた場面より、拾われなかった場面のほうが印象に残ることもあるでしょう。

一方で、繰り返し発言を遮られる、具体的な提案だけ無視される、といった確認できる行動の積み重ねがあるなら、それは大切な情報です。「全部あなたの受け取り方」と片づけることもできません。

分けることは、問題を小さく見せるためではなく、何が起きていて、何がまだ分からないのかを見やすくするためにあります。

思想が「事実の顔」をするとき

今度は、もう少し大きな話です。たとえば「人はいつでも前向きでいるべきだ」「人生で起こることにはすべて意味がある」「正しい人なら怒らない」といった言葉。

それらを大切にして生きる人もいるでしょう。ある言葉に救われたり、人生を考える手がかりになったりすることもあります。

ただ、「私はそう捉えて生きたい」と「人間は必ずそういう仕組みでできている」は、同じ種類の主張ではありません。

前者は、その人の信念や生き方についての話です。後者は、ほかの人にも当てはまる事実についての話になります。後者として話すなら、確かめ方や例外についても考える余地が出てきます。

仮に「怒りは未熟さの証拠だ」と信じている人がいたとします。怒っている相手を見た瞬間、その人には「未熟な人」に見えるかもしれません。けれど、そこで確かめられたのは怒りの表れであって、その人の人格全体ではありません。

反対に「怒るのは当然だ」という考え方も、別の価値観です。怒りの背景に何があったか、行動によってどんな影響が生じたかは、その価値観とは別に見ていけます。

正しいと思っている人同士が、なぜぶつかるのか

少しおかしなことですが、二人とも「よいことをしよう」としているのに、対立する場面があります。

たとえば、困っている友人に声をかけるかどうか。一人は「助けを申し出るのが思いやり」と考え、もう一人は「本人から頼まれるまで待つのが尊重」と考えている。

どちらも相手を大切にしようとしているのに、一方には「冷たい人」、もう一方には「おせっかいな人」と見えることがあります。

ここには行動の違いだけでなく、何を思いやりと呼ぶかという基準の違いがあります。その基準が自分には当たり前すぎると、「相手は違う基準を持っている」ということ自体が見えにくくなるのかもしれません。

そとがわメソッドでは、善悪や正誤という判断が、どんな認識の中で生まれているのかを観察します。これは「何をしても構わない」という意味ではありません。実際の被害、合意、責任、境界線などは、必要に応じて具体的に確かめることができます。

大切なのは、「悪い人だからこうした」という説明と、「何をしたのか、誰にどんな影響があったのか」という説明を混ぜないことです。

「それは事実じゃない」と言う前にできる、ちょっとした比較

誰かと意見がぶつかったとき、すぐに正誤を決めようとする前に、会話の中の言葉を三つに分けてみると面白いことがあります。

まず「その場で何が起きたと確認できるか」。次に「そこから何を推測したか」。そして「何を大切にしているから、その出来事をよい・悪いと感じたか」。

たとえば「返信が遅い人は不誠実だ」という言葉なら、返信までに時間がかかったことは確認できるかもしれません。「自分を軽く扱っている」は推測です。「早く返信するのが誠実さだ」は、関係についての基準です。

もちろん、仕事上の緊急連絡や事前の約束があれば、返信の遅れには実際の問題が生じます。その場合は、連絡の期限や取り決めという条件も加わります。

条件を一つ足すだけで、同じ「返信が遅い」の意味はずいぶん変わりますね。

自分の反応も、また一つの観察対象になる

誰かの話を聞いて「それは違う!」と反応したとき、その瞬間にはすでに、何かが正しくないと感じられているのかもしれません。

その反応をなくそうとする必要はありません。「なぜ私はこれを訂正したくなったのだろう」と眺めてみることもできます。

相手の言葉が、自分の大切な価値観に触れたのかもしれない。以前の経験を思い出したのかもしれない。誤った情報によって誰かが困ることを心配したのかもしれません。

そのあとに「こんなことで反応する自分は心が狭い」と思うなら、それは最初の反応に対する別の反応です。そちらも、善悪で裁く前に観察できます。

事実、思想、意味づけ、反応。いろいろなものが一つの「現実」にまとまって感じられるところに、人間の面白さがあるのだと思います。

まとめ:言葉が同じでも、話している階層は違う

「あの人は失礼だ」という言葉を聞いたとき、その人が見た出来事と、そこに付いた意味と、判断の基準は必ずしも同じではありません。

どちらが正しいのかを急いで決めるより、まず今、何について話しているのかが分かると、すれ違いの形も少し違って見えるかもしれません。

こうした見方は、錯視はなぜ起きる?「見えた」ことはそのまま事実なのかで扱った「見えること」と、「思い込みを書き換えよう」としても戻るのはなぜ?で扱った「考え方」の話ともつながっています。

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よくある質問

自分の解釈だと分かれば、相手と対立しなくなりますか?

必ずしもそうとは限りません。価値観の違いや現実の利害が残ることもあります。ただ、確認できる出来事と自分の推測を区別すると、何について話し合う必要があるのかを見つけやすくなります。

「善悪正誤は認識から生まれる」なら、被害を受けても判断できないのですか?

いいえ。人がどう評価するかという話と、実際に起きた行為や被害、責任、法律上の判断は別です。危険や実害があれば、必要な対応や支援を求めることができます。

思想や信念を大切にするのはよくないことですか?

そういうことではありません。個人の思想が日々の支えになることもあります。この記事で扱っているのは、それを誰にでも当てはまる事実として話すときに、何が混ざりやすいかという点です。

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この記事を書いた人

そとがわメソッド開発者。心理学・自己啓発・潜在意識などを学んでも自己否定が終わらなかった自身の経験から、「自分を変える前に、何が起きているのかを見る」そとがわメソッドを開発。著書『自分を否定しない練習』。
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