「あの人、絶対に私のことを嫌っている」
そう思った理由を聞くと、「昨日、挨拶しても返事がなかったから」と返ってきたとします。
挨拶をした。返事がなかった。ここまでは、本人が経験した出来事です。でも「嫌われている」は、その出来事を説明する一つの解釈です。相手に聞いてみたら、イヤホンで音楽を聴いていただけかもしれません。
もちろん、本当に嫌われている可能性もあります。面白いのは、どちらかが正しいと決まる前から、人は解釈に合わせて心臓がどきどきしたり、次の日に挨拶しづらくなったりすることです。
なぜ、頭の中で作られた説明が、目の前の事実そのもののように感じられるのでしょうか。
事実と解釈は、どこで入れ替わるのか
まず、三つの言葉を分けてみましょう。
- 出来事:相手に挨拶をしたが、返事が聞こえなかった。
- 解釈:相手は私を避けているのではないか。
- 確信:あの人は私のことが嫌いだ。
この三つは、本人の体験の中では連続しています。だから「返事がなかった」という記憶を思い出した瞬間に、「嫌われている」という意味までセットで浮かぶことがあります。
けれども、連続して感じられることと、同じ種類の情報であることは別です。「返事がなかった」は確認できる出来事として扱えます。一方、「嫌っている」は相手の内面についての推論なので、別の証拠が必要です。
同じ出来事でも、前提が違うと「現実」が違って見える
今度は、職場で上司から「この資料、もう一度確認して」と言われる場面を考えます。
Aさんは「期待されているから細かく見てもらえた」と受け取ります。Bさんは「自分は仕事ができないと思われた」と受け取ります。Cさんは「誤字があったのかもしれない。どこだろう」と考えます。 上司の言葉は同じでも、その後の気分や行動は違うかもしれません。Aさんは前向きに修正し、Bさんは緊張し、Cさんは確認箇所を質問するかもしれない。
ここで挙げた反応は、違いを考えるための例であり、誰もが必ずそうなるという法則ではありません。
私たちは出来事を受け取るとき、過去の経験や期待、すでに持っている考え方を使って意味を理解しています。そとがわメソッドでは、このように経験される現実のまとまりを説明するときに「現実画面」という表現を使います。
ただし「現実画面」は、世界の物理的な出来事がすべて自分の考えで生まれる、という意味ではありません。起きた出来事と、自分の中で成立した意味が、普段は一緒になって経験されるという点に注目するための表現です。
思想や信念は「間違ったもの」なのか
ここで、話を少し大きくします。
「努力は必ず報われる」「人は本来、善良な存在だ」「宇宙には意味のある秩序がある」。こうした言葉には、人生観、信念、哲学的立場など、さまざまなものが含まれます。
人が何を大切にして生きるかを考えるうえで、信念は重要な働きをします。
問題は信念を持つこと自体ではありません。価値判断・思想・検証可能な事実を、区別しないまま扱うことです。
たとえば「努力を大切にしたい」は価値観です。「私は毎朝30分練習した」は行動についての報告です。「努力すれば誰でも必ず成功する」は、現実についての一般的な主張です。
最後の主張を事実として述べるには、成功の定義、対象、反例などを検討しなければなりません。
同じように、「私はこの教えを信じている」と「この教えは科学的に証明されている」は、まったく違う発言です。前者は自分の立場の表明。後者は検証可能な根拠を求められる主張です。
なぜ、根拠を聞かれると自分を否定された気がするのか
「それって事実なの?」と聞いただけなのに、相手が怒り出す。逆に、自分が大切にしている考えを疑われたとき、思いのほか腹が立つ。そんなことはないでしょうか。
考え方が自分の所属、経験、尊厳、これまでの選択と強く結びついていると、その内容についての質問が「自分自身を否定された」という意味を帯びることがあります。
ただし、それは毎回そうだという話ではありません。質問の仕方が攻撃的だったり、実際に相手を見下していたりする場合もあります。
誰かが怒ったという事実だけから、その人の心理的な仕組みを一つに決めつけることはできません。
ここでも分けてみると面白いのです。「その考えには根拠がある?」という問いと、「あなたには価値がない」という評価は同じではありません。それなのに、ある条件では後者の意味まで感じられる。
すると、考えを検討する前に身を守るような反応が起こることもあります。
「事実を見ればいい」だけでは片づかない理由
ここまで読むと、「じゃあ、解釈を捨てて事実だけを見ればいいんだ」と思うかもしれません。でも、人間が意味づけをまったくせずに日常を送ることは、現実的ではありません。
信号が赤なら止まる。友人の表情から体調を気遣う。メールの文面から急ぎの用件だと判断する。私たちは限られた情報から推測することで生活しています。
解釈する仕組みは、邪魔者ではなく普段から使っているものです。
それに、相手から繰り返し侮辱されている、契約上の不利益がある、危険な状況に置かれている、といった場合には、出来事そのものへの対応が必要です。
「それはあなたの意味づけだ」と言って、現実の実害や責任を消すことはできません。
区別することは、現実を軽く扱うことでも、何でも自分のせいにすることでもありません。どの部分が観察できた出来事で、どの部分が説明や予想なのかを知ることです。
いちばん面白いのは「自分は今、何を事実だと思っている?」
「あの人は失礼な人だ」と思ったとき、失礼だと判断した場面は何だったのでしょう。「私は人づきあいが苦手だ」と思ったとき、どんな経験がその自己イメージの材料になったのでしょう。
これを「考え方を正すための宿題」にしなくてもかまいません。ただ、自分の中ではあまりに自然だった結論を眺めたとき、「あ、ここで意味が足されていたのか」と気づくことがあります。
正しさや「普通」の感覚が人によって違って感じられることは、なぜ人は自分の考えが正しいと思うのか?でも別の角度から考えられます。
さらに面白いことに、「あの人は絶対に間違っている」という自分の確信についても、同じ区別ができます。人間観察は、観察している自分自身まで含んでいるのです。
そとがわメソッドが探究しているのは、「正しい考えに取り替える方法」よりも、その考えを現実として経験するまでに何が起きているのかという仕組みです。
現実画面の作られ方を手がかりに、考えや感情が生まれていることに気づく観察点、そして反応にさらに反応する一次・二次反応へと見ていきます。
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