何か問題が起きた。
最初は、
「何が原因だったんだろう」
と考える。
振り返っていると、
自分にも気になるところが見つかる。
もっと早く確認できた。
別の言い方もできた。
先に聞いておけばよかった。
もう少し周りを見られたかもしれない。
すると、
だんだん、
「やっぱり私が悪かったんだ」
という結論になります。
自分に改善できるところがあった。
だから、
この結果は自分が原因だった。
でも、
この二つは、
必ずしも同じではありません。
「自分が変えられた部分がある」ことと、
「自分がその結果の原因だった」ことは別です。
反省すると、変えられたところが見つかる
振り返ることには、
意味があります。
仕事でミスがあった。
次は提出前に確認しよう。
人との会話で、
少し強い言い方になった。
次は一度考えてから伝えよう。
頼まれた仕事を抱えすぎた。
次は先に予定を確認しよう。
こうして、
次回変えられるところを見つける。
これは、
普通の改善です。
でも、
ここから一つ飛ぶことがあります。
「ここを変えられた」
↓
「ここを変えていれば問題は起きなかった」
↓
「つまり、私が原因だった」
このつながりです。
改善できる点があるからといって、それが原因とは限らない
たとえば、
仕事で納期に間に合わなかった。
振り返ると、
自分にも、
もっと早く確認できたところがあった。
だから、
次回は早めに確認する。
ここまではできます。
でも、
納期に間に合わなかった理由には、
ほかにも、
急な仕様変更。
作業量。
説明不足。
ほかの人の作業待ち。
システムトラブル。
人員不足。
いろいろなものが関わっていたかもしれません。
自分にも改善できる点が一つあった。
それだけで、
「納期に間に合わなかった原因は私だった」
まで確定することはできません。
自分のことは、一番改善案を出しやすい
問題が起きたとき、
相手の行動は変えられません。
過去も変えられない。
環境も、
簡単には変えられない。
でも、
自分についてなら、
改善案を考えられます。
次は早くする。
もっと確認する。
言い方を変える。
気をつける。
だから、
振り返れば振り返るほど、
自分についての改善点が増えます。
すると、
こんなに直すところがあるのだから、
やっぱり自分に原因があったのだろう、
と思いやすくなる。
でも、
改善案をたくさん出せることと、因果関係が証明されたことは別です。
「自分なら変えられた」が、「自分が悪い」に変わる
これは、
かなり起きやすい流れです。
相手がどうすればよかったかは、
自分では決められない。
職場の仕組みも、
すぐには変えられない。
でも、
自分なら、
もう少しできたかもしれない。
だから、
自分を見る。
すると、
変えられた可能性のあるところが見つかる。
そして、
「じゃあ私がちゃんとしていれば防げた」
となる。
こうすると、
問題が、
自分で扱えるものになります。
次から頑張ればいい。
自分を変えればいい。
一見、
前向きにも見えます。
でも、
そのために、
結果の原因まで自分に置いていないか
は分けて見ることができます。
「私にもできることがあった」と「私のせい」は違う
たとえば、
人間関係で、
相手と喧嘩になった。
振り返ると、
自分にも、
言い方を変えられたところがあった。
「あの言い方はきつかったな」
と思う。
必要なら、
謝ることもできます。
次は、
別の伝え方を選ぶこともできます。
でも、
喧嘩になったこと全部が、
自分の言い方だけで生まれたとは限りません。
相手の言い方。
その前までの関係。
お互いの状況。
その日の余裕。
以前からあった問題。
いろいろな要素があります。
「私にも変えられる部分があった」
で止めることもできます。
そこから、
「だから全部私のせい」
へ進まなくても構いません。
反省するほど、自分だけが詳しく見える
自分の行動なら、
細かく思い出せます。
あの言葉。
あの判断。
あのタイミング。
あの表情。
「あそこで違うことをしていれば」
と、
何通りも考えられます。
一方、
相手が何を考えていたか。
相手がほかに何を抱えていたか。
環境に何が影響していたか。
それは、
全部は分かりません。
だから、
反省を続けるほど、
自分側の変数だけがどんどん詳しくなる
ことがあります。
詳しく見えるものほど、
原因らしく感じる。
でも、
見えている量と、
原因としての大きさは同じではありません。
たとえば、相手が怒ったとき
誰かに何かを言った。
相手が怒った。
振り返る。
「もう少し柔らかく言えばよかった」
と思う。
ここから、
「私の言い方が悪かったから怒った」
となる。
もちろん、
言い方が影響した可能性はあります。
でも、
同じ言葉でも、
気にしない人もいる。
怒る人もいる。
その日の状況で反応が変わることもある。
つまり、
自分の言い方は、
一つの変数にはなり得ます。
でも、
相手が怒ったという結果は、
自分一人で決めたものではありません。
「改善したら結果が変わったはず」も、まだ予測
あとから、
「こうしていれば大丈夫だった」
と思うことがあります。
もっと早く連絡していれば。
優しく言っていれば。
確認していれば。
でも、
その行動をした場合に、
本当に同じ問題が起きなかったかは、
実際には分からないこともあります。
別の問題が起きたかもしれない。
相手は、
それでも怒ったかもしれない。
条件が変わらなければ、
同じ結果だったかもしれない。
「別の行動なら問題は起きなかった」は、
結果を知ったあとに作る、
一つの予測です。
改善案は、原因を確定しなくても作れる
ここは大切です。
原因が完全に分からなくても、
次回の改善はできます。
たとえば、
「今回何が原因だったかは一つには決められない。
でも、
私は次回、
提出前に一回確認してみよう」
で構いません。
改善するために、
「私が悪かった」
まで確定する必要はありません。
原因が複数あるかもしれないまま、
自分が扱える一部分だけ変える。
それもできます。
「自分を責めるから改善できる」とは限らない
真面目に反省する人ほど、
「自分に甘くしたら成長できない」
と感じることがあります。
だから、
問題が起きたら、
必ず自分の悪かったところを探す。
でも、
改善に必要なのは、
自分を悪者にすることではありません。
何が起きた?
自分が変えられる部分は?
次は何をする?
ここまで分かれば、
改善はできます。
「だから私は悪かった」
という結論は、
改善とは別に追加されていることがあります。
反省の途中で、原因探しに変わっていないか
最初は、
次に活かすために考えていた。
でも、
いつの間にか、
「誰のせいだった?」
を考えている。
そして、
自分の改善点が見つかるたび、
「やっぱり私だった」
となる。
すると、
反省するほど、
自分の罪が増えていくように感じます。
でも、
改善点は、
罪の証拠ではありません。
「次回こうしてみる」という情報です。
ここまで読んで、
「私は改善できるところを見つけるたび、それを『私が原因だった証拠』にしていたかもしれない」
と思った方は、無料講座0時間目から見てみてください。
反省をやめるためではなく、どこで「改善」から「自分が原因」へ変わっているのかを見るための入口です。
自分が悪くなかったことにする必要もない
ここまで読むと、
「じゃあ、自分には責任がないと思えばいいの?」
と感じるかもしれません。
そういう話ではありません。
自分がしたことは、
自分がしたことです。
修正が必要なら、
修正できます。
謝る必要があれば、
謝る。
次から変えることがあれば、
変える。
ただ、
それと、
出来事全体の原因を自分一人に置くことは、
別です。
原因は、一つとは限らない
現実の出来事は、
複数の条件が重なって起きることがあります。
自分の判断。
相手の判断。
時間。
情報。
役割。
環境。
偶然。
制度。
その日の状況。
その中で、
「自分にも変えられる部分があった」
ということはあります。
でも、
それを、
唯一の原因にする必要はありません。
「もっとできた」は、ほぼいつでも見つかる
振り返れば、
ほとんどの出来事に、
別の行動を考えることができます。
もっと確認できた。
もっと優しくできた。
もっと早くできた。
もっと慎重にできた。
もっと相手を見られた。
だから、
「もっとできたところがあるか」
を基準にすると、
ほぼ必ず、
自分に改善点が見つかります。
そして、
改善点が見つかるたび、
自分を原因にするなら、
どんな出来事でも、
最終的には、
「自分が悪かった」
にできます。
だからこそ、
改善点の存在と、原因の確定を分けること
が必要になります。
「私が変われば結果が変わった」は、コントロールできた証明ではない
自分の行動が変われば、
結果に影響することはあります。
でも、
影響することと、
結果を完全にコントロールできることは別です。
丁寧に話しても、
相手が怒ることはある。
確認しても、
別のミスが起きることはある。
準備しても、
予定どおりいかないことはある。
自分が変えられるところを変える。
それでも、
相手や環境の変数は残ります。
反省したあとに「誰のせい?」まで決めなくていい
振り返って、
自分の改善点が見つかった。
そのあと、
「じゃあ私が悪かったんだ」
と締めなくても構いません。
「次はここを変えてみよう」
で、
一度終わることもできます。
原因については、
分からないものが残っていてもいい。
自分が一部関わっていた。
相手も関わっていた。
環境も関わっていた。
どのくらい影響したかは分からない。
そういう答えもあります。
今日見るなら「改善できることと、原因を分ける」
また何かを反省して、
自分の改善点が見つかったとき。
一度、
こう聞いてみてください。
「これは、次回私が変えられること?
それとも、今回の結果が私のせいだった証拠?」
この二つを、
同じにしない。
たとえば、
「次は早めに確認する」
これは、
改善案です。
「だから今回の問題は私のせいだった」
これは、
原因についての判断です。
間に、
一段あります。
反省するたび「自分が原因だった」になるなら
何か問題が起きた。
振り返る。
自分に改善できたところが見つかる。
すると、
「やっぱり私が悪かった」
となる。
もし、
この流れを繰り返しているなら、
反省しない人になる必要はありません。
改善もできます。
ただ、
改善できることが見つかった瞬間に、
出来事全体の原因まで、
自分に確定していないかを見る。
何が起きたのか。
自分は何に関わったのか。
自分に変えられるところはどこなのか。
相手や環境には、
何があったのか。
まだ分からないことは何か。
そこを分けます。
そとがわメソッドでは、
「自分を責めないようにする」より先に、
どこで改善点が『自分が原因だった証拠』に変わっているのか
を見ていきます。
無料講座0時間目「分かっているのに、やめられない理由」では、
分かっているのに同じ自分責めへ戻ってしまうとき、
その間で何が起きているのかを、
実際の出来事から見ていきます。
自分の責任をなくすためではなく、自分が扱える部分と、まだ原因として確定できない部分を分けるための入口としてご覧ください。
よくある質問
自分に改善点があるなら、やっぱり自分にも原因があるのでは?
影響している可能性はあります。
ただ、
「改善できる点がある」ことだけで、
結果全体の原因だったとは確定できません。
ほかの変数も含めて見る必要があります。
反省しないと成長できないのでは?
振り返りや改善はできます。
この記事で分けているのは、
改善することと、
「だから自分が悪かった」と原因まで確定することです。
自分が本当に悪かった場合は?
自分の行動に明確な問題があれば、
修正したり謝ったりできます。
それでも、
人格全体を責めたり、
結果に関わったほかの条件まで自分一人で背負ったりする必要はありません。
原因が分からないままでもいいのでしょうか?
現実には、
完全には分からないこともあります。
原因が確定できなくても、
次回自分が変えられることを決めることはできます。
関連記事
いろいろな場面で最終的に「自分が悪い」に戻ってしまう場合はこちら。
学んだ知識や正しい方法が、自分を採点する基準になっている場合はこちら。
自分について理解して改善を続けているのに、問題が起きるたびまた自分の修正箇所を探してしまう場合はこちら。
もう少し、自分の中で起きていることを見てみたい方へ
振り返れば、
「もっと早く確認できた」
「別の言い方もできた」
「こうしておけばよかった」
と、改善できそうなところは見つかる。
すると、
「やっぱり私が悪かったんだ」
と、自分が原因だったように感じることがあります。
そんなときは、
反省をやめる前に、
改善できる部分があることと、
その結果の原因が自分だったことを分けて見る
こともできます。
そとがわメソッドの無料講座では、
実際に起きた出来事。
そこについた意味。
反応。
そのあとに起きた自分への判断。
そして、
なぜ「自分が原因だった」という結論へ進んでいるのか
を順番に分けて見ていきます。
改善できるところは、改善していい。
でも、
「次はこうしよう」と学ぶことと、
「だから全部私のせいだった」と自分を責めることは同じではありません。
自分の責任をなくすためではなく、
実際に何が関わっていたのかを、一度分けて見てみませんか。

そとがわメソッド開発者。心理学・自己啓発・潜在意識などを学んでも自己否定が終わらなかった自身の経験から、「自分を変える前に、何が起きているのかを見る」そとがわメソッドを開発。著書『自分を否定しない練習』。
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