リリ『在る視点』とは?「私は在る」の意味とエゴ・無条件の愛

「私は在る」。たった四文字なのに、そこから一冊の本が生まれる。そう聞くと、少し不思議ではありませんか。

「そりゃ、私はここにいますけど……?」と言いたくなるかもしれません。でも、リリさんが『在る視点』で語る「私は在る」は、今日の自分を元気づけるための自己肯定の言葉とは、ちょっと違います。

リリさんの関心は、「何者かである私」をいったん離れて、そもそも「在る」とは何なのかを見つめること。その視点から、苦しみ、悟り、無条件の愛、日々の人間関係までを眺め直していきます。

この記事では、著者本人の公開文章と書籍案内をもとに、その世界観を順にたどります。「在る視点」は何を見ようとしているのか。そして、なぜ「悟ろうとすること」さえ不思議な落とし穴になり得るのでしょう。

目次

リリさんとは? 『在る視点』を書いた非二元の探究者

リリさんは、悟り・非二元(ノンデュアリティ)をテーマに発信する著者・セラピストです。本人のプロフィールによると、幼い頃から人生への疑問や生きづらさを感じ、二十代で経験した困難をきっかけに、自己探求を深めてきたといいます。

自分の体験を「一瞥(いちべつ)」や「覚醒体験」として語り、そこから見えてきた世界を人に伝える活動を続けています。ここでいう一瞥とは、非二元の文脈で「ふだんとは異なる気づきが一時的に開けた体験」を指す言葉です。どのような体験だったかを詳しく知りたい人は、本人の説明に触れるのがいちばんでしょう。

リリさんが書いたのが、2024年4月刊行の『在る視点――エゴの視点から悟りの視点にシフトする方法』(ナチュラルスピリット、ISBN 9784864514712)です。出版社が登録した書誌情報で、刊行時期や書名を確認できます。

本の章立ても面白い構成です。第Ⅰ部では「神の呼び声に導かれて」「神=在るとは?」「在るの洞察」、第Ⅱ部では「在るの視点から観た人生」「魂から在るへの帰還の旅路」を扱います。つまり、抽象的な「存在」の話で終わらず、それを日々の人生にどう見いだすかへ向かう本なのです。

「私は在る」とは? 「私は〇〇だ」の前にあるもの

私たちは、一日中いろいろな「私」を語っています。「私は母親だ」「私は仕事ができない」「私は繊細だ」「私はあの人に嫌われている」。

言葉の後半は、役割だったり、評価だったり、今の気分だったりします。昨日まで「得意」だったことが今日はうまくいかない場合もあるし、会う相手によって自己紹介の内容も変わります。

では、その「母親」「できない」「繊細」という言葉を全部外したら、何が残るでしょう。

肩書きでも評価でも、思考の中に登場する人物像でもない「在る」ということ。リリさんが見つめようとするのは、そういう次元です。

著者は自身の出版紹介ページで、書籍の冒頭に登場する最も重要な言葉として「私は在る」を掲げています。そして、それを「個人としての私が存在している」という意味にとどめていません。

「個人の私」と「神としての在る」は、同じ意味ではない

ここは読み違えやすいところです。例えば「私は今ここにいる」と言えば、通常は名前や年齢や体を持つ、一人の人間を指すでしょう。

一方、リリさんは「在る」を、個人よりも根源的な存在、つまり本人の言葉でいう「真我」や「神」に結びつけています。「神」という語も、空の上にいる特定の人格を紹介しているというより、存在の根源を指す言葉として使っています。

だから「私は在る」は、「私はすごい」「私は何でもできる」と言い聞かせる言葉ではありません。自分を飾る言葉が消えても、存在そのものはなくならないという方向から、自分のあり方を問い直すのです。

ここに非二元という世界観の特徴があります。個人と世界、私と神、悟っている人と悟っていない人。そのように分けてきた見方自体を、もう一度眺めてみるわけです。

なぜ「悟りを求めること」が、悟りから遠ざかるように感じられるのか

リリさんの文章で、特に興味深いのは「探しているものが、そもそも失われていない」という発想です。

例えば、眼鏡をかけたまま眼鏡を探していた人を想像してください。「どこだ?」「さっきまであったのに!」と家じゅう探し回って、ようやく家族から「かけてるよ」と言われる。見つけるための努力よりも、最初の前提がひっくり返る瞬間ですよね。

もちろん、眼鏡の例は非二元の真理を証明するものではなく、発想を理解するためのたとえです。でも「まだ悟っていない私が、いつか悟りを手に入れる」という構図を疑うには、わかりやすいかもしれません。

リリさんは『在る視点』の公開抜粋で、「悟っていない自分」と「悟り」を別々のものとして設定してしまう探究のジレンマを語っています。自分はまだ足りない、まだ到達していない。そう考えると、探究を続ける理由がどんどん増えていくわけです。

考えてみると面白いですね。悟るために何冊も本を読み、何時間も瞑想しているのに、「私はまだ悟っていない」という自己評価だけが丈夫になっていくこともある。探究の熱心さと、自分を未完成だと見る気持ちが、同時に育つことがあるのです。

リリさんの「在る視点」は、こうした「目標へ到達するまでの私」という物語から、視点を変えてみようと提案します。

「エゴの視点」と「在る視点」は何が違う?

本の副題にも登場する「エゴ」。聞くと、自己中心的な性格や、直すべき欠点を想像しがちですが、リリさんの説明では、もっと幅広く「思考・マインド」に関わるものとして扱われます。

エゴの視点では、私たちは物事を「自分にとって得か損か」「認められたか否定されたか」「成功か失敗か」といった物語の中で受け取りやすくなります。

一方、著者が語る「在る視点」は、何が起きていても、その出来事や反応を無条件の愛や慈悲の側から眺めるあり方です。

ここで大事なのは、エゴを見つけて退治するという話ではないこと。リリさん自身、公式の出版紹介でエゴが「悪い」のではないと述べています。怒りや不安が出たことを理由に、「エゴが出た! また失敗した」と採点し始めたら、その採点をしている視点は何だろう、という新しい問いが生まれます。

例① 返信が来ない夜。同じスマホを見ているのに

大切な人にメッセージを送った。でも、数時間たっても既読にならない。

頭の中に「嫌われた?」「何か余計なことを言った?」という考えが浮かび、相手からの返信が来るたびに一喜一憂することがあります。エゴの視点という言葉で見るなら、「返事がない=自分は大切にされていない」という物語に入り込んでいる状態かもしれません。

「在る視点」で眺めるとは、相手の行動を都合よく解釈して安心しようとすることとは少し違います。返事がないことも、不安が起きていることも、それを嫌がる自分も、いま起きているものとして眺めてみる。

気づいたからといって、その場で不安が消える必要もありません。リリさんの無条件の愛という言葉を日常に置いてみるなら、不安な自分まで「認められる側」から追い出さないという見方ができます。

例② 失敗した仕事。「私はダメだ」は、どこで生まれた?

仕事で確認漏れをした。相手に迷惑をかけ、訂正が必要になった。ここで「私は無能だ」「失敗した私は愛されない」まで話が広がると、ひとつの出来事が、その人の存在全体への判定になってしまいます。

「在る視点」では、失敗をなかったことにはしません。訂正や謝罪が必要なら、それはそのまま必要です。でも、行為に責任があることと、存在そのものを否定することは、必ずしも同じではない。

エゴが作った自己評価も、悲しさや恥ずかしさも、まずは起こっているものとして眺める。リリさんが語る「慈悲」が日常に触れるとしたら、こういう瞬間なのかもしれません。

例③ 理不尽な相手。「全部愛だから」で終わるの?

ここで、もうひとつ条件を変えてみましょう。大切な人にひどい言葉を言われた、職場で不当な扱いを受けた、繰り返し境界線を越えてこられた。

そんなときに「すべては無条件の愛」と聞くと、「じゃあ、何も言わず我慢するの?」と疑問が出るかもしれません。

でも、心の中で相手を憎み続けないことと、相手の行為を容認することは別です。距離を置く、抗議する、支援を頼む、法的な対応を考える。そうした行動まで捨てる必要はありません。

著者は自身の紹介で、恋愛・仕事・人間関係などの現実を離れない悟りを伝えたかったと述べています。この趣旨を読むうえでも、無条件の愛を「被害に耐える義務」に変えてしまわないことは大切でしょう。

「無条件の愛」「赦し」「恩寵」とは何を指しているのか

リリさんの『在る視点』には、「無条件の愛」「赦し(ゆるし)」「恩寵(おんちょう)」という言葉が繰り返し登場します。

日常の「好きだから愛する」「反省したから許す」は、条件がついた関係を思い浮かべます。一方、著者のいう無条件の愛は、成功・失敗や快・不快、好き・嫌いといった区別を越えて、存在や体験そのものを受け入れるという世界観です。

本人は、書籍紹介で苦しみを「恩寵」として捉え直す視点を語っています。この言葉の面白さは、普段なら「起きてほしくなかった出来事」が、見方によってまったく別の意味を持ち得るところにあります。

ただし、苦しかった本人に「それは贈り物だから喜びなさい」と言うこととは違います。本人が自分の経験を振り返ってそう理解することと、周囲の人がその説明を押しつけることでは、意味が変わります。

「赦し」は、嫌なことをされた記録を消す魔法の言葉ではありません。自分がどう受け止めているのかを見直すための、一つの深い問いとして読めます。

「在る視点」は、ポジティブ思考と何が違う?

では、「在る視点」と「できるだけ前向きに考えること」は同じでしょうか。

例えば、落ち込んでいるときに「大丈夫! いいことを考えよう」と気持ちを切り替えるのがポジティブ思考の一つの使い方だとすると、「落ち込んでいることも、今ここで起きている」と見るのが「在る視点」を理解する入口になります。

前者は、できるだけ望ましい考えや気分へ向かおうとする。後者は、望ましくない気分が起きていても、それを存在から排除しない。もちろん、両方が日常で混ざることもあります。

ここにはちょっとした逆転があります。「ありのままでいたい」と頑張るほど、ありのままでない今の自分を否定してしまう。それでは、どこから「無条件」なのでしょう。

リリさんが「悟っていない私」を前提にした探究を疑う話は、こうした日常の自己評価にも通じています。

「視点が変わると世界が変わる」は、どういう意味で読める?

著者は、エゴの視点から「在る視点」へ移ることで、世界の見え方が変わると語っています。ここでいう「世界が変わる」は、少なくとも本人の説明では、私たちが経験する世界のあり方がまるで違うものとして現れるという意味を持っています。

例えば、同じ雨の日でも、「予定を台無しにする敵」と感じる日もあれば、「今日は家で静かに過ごせる」と感じる日もあります。雨という出来事が同じでも、そこに何を見るかで経験が違う。こういう身近な変化を入口にすると、視点という言葉が少し具体的になります。

もちろん、リリさんの語る「神としての在る」は、雨の日の気分転換だけに収まる概念ではありません。個人のものの見方よりも根源的な存在の理解へ向かうのが、本書の非二元的な探究です。

その大きな世界観をすぐに受け入れるかどうかとは別に、「今、私が世界だと思っているものには、どんな視点が加わっているのか?」と考えてみるのは面白いですね。

「全部が愛なら、苦しむ人や他人の責任はどうなる?」

「あらゆる体験が無条件の愛の中にある」という考え方に魅力を感じる一方で、ふと止まるところもあります。

たとえば、「相手も自分も本質では一つ」と捉えたとしても、現実には相手の選択と自分の選択は同じではありません。傷つけた人には行為の責任があり、傷ついた人には守られるべき境界線があります。

また、病気や災害などについて「すべて必要だった」と語れば、苦しんでいる人が望んでいる医療や支援の話が見えなくなることもあり得ます。

だからこそ、リリさんのいう「在る」を知るときも、内面でどう経験されるかという問いと、具体的な行為・責任・支援の問いは、両方残しておけると思います。悟りの話を日常へ持ち込むなら、こうした条件も一緒に見ておきたいところです。

これは「無条件の愛」を捨てるための批判ではありません。むしろ、その言葉が日常のどんな場面まで届くのかを、もう少し知りたくなる問いです。

ラマナ・マハルシの「私は誰か?」やトールの「今ここ」とつながるところ

非二元や悟りの話を読むと、別の本でも似た言葉に出会うことがあります。「私」「在る」「今ここ」「真我」「気づき」。同じ言葉だから、同じことを言っているのでしょうか。

例えば、ラマナ・マハルシの「私は誰か?」は、「私」という感覚の根源を問う自己探求が中心にあります。エックハルト・トールの「今ここ」では、思考にのみ込まれず現在に気づくプレゼンスが大切になります。

リリさんの場合は、「私は在る」という存在の理解を、無条件の愛や赦しという言葉に結びつけ、恋愛や仕事といった人生の経験まで眺めることが特徴的です。似た語句を入り口に、それぞれの著者がどんな問いを大事にしたかを比べてみると、読書がぐっと面白くなります。

「私とは何か?」から入る人、「今ここ」から入る人、「私は在る」から入る人。同じ景色を見るための別の入口かもしれないし、入口の違いそのものに大切な意味があるのかもしれません。

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そとがわメソッドでは、私が現実をどう認識し、その中で意味づけや反応がどう生まれるのかという仕組みを中心に探究しています。

リリさんの「私は在る」という問いから、さらに存在そのものを探究してみるのも面白いですね。教えのどこに惹かれ、どんな言葉で自分の見方が変わるのか。そんな自分の反応を観察してみる楽しさもあります。

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『在る視点』をもっと知りたい人へ|著者本人の公開資料

本書をさらに深く知りたい人には、リリさん自身が公開した本の紹介が、最も直接的な入口です。「はじめに」からの抜粋や、本書の5章の構成を読むことができます。

この記事は、著者の公開文章と書誌情報をもとに、読者が「在る視点」という世界観へ入るために構成しました。書籍全ページの精読や、収録ワークの再現ではありません。さらに深めたい場合は、ぜひ原著を手に取ってみてください。

よくある質問

リリさんの『在る視点』は、どんな本ですか?

2024年にナチュラルスピリットから出版された、悟り・非二元を扱う本です。エゴの視点から「在る視点」へと見方を変え、苦しみや無条件の愛を日常の人生とともに考えます。著者は自身の公式サイトで目次と本文の一部を公開しています。

「私は在る」とは、「ありのままの自分を好きになる」という意味ですか?

それだけではありません。リリさんは「私は在る」を、個人の肩書きや性格を越えた「存在」そのもの、本人の用語でいう「真我」や「神」と関係づけています。単なる自己肯定の標語ではなく、非二元的な自己探求の言葉として読む方が原著に近いでしょう。

「エゴ」は悪いものとして否定されるのですか?

著者はエゴを思考やマインドの働きとして語り、エゴ自体が悪いわけではないとも述べています。否定するために探すというより、エゴの物語に巻き込まれているとき、何が起きているかに気づく問いとして読むことができます。

「在る視点」なら、怒りや不安を感じなくなりますか?

リリさんは「在る視点」から平安や慈悲に気づくことを伝えていますが、今ある怒りや不安を無理に消さなければならないという意味に読む必要はありません。感情を持った自分まで排除しないという読み方もできます。具体的な体験や実践については本人の原著をご確認ください。

ラマナ・マハルシの「私は誰か?」と同じ教えですか?

ともに非二元や自己探求に関わりますが、焦点は同一ではありません。ラマナは「私」という感覚の根源を問い、リリさんは「在る」を無条件の愛・赦し・日常の人生と結びつけて語っています。それぞれの言葉や背景を知ると、比較の面白さが増します。

「すべてが愛」なら、相手のひどい行為も受け入れなければなりませんか?

いいえ。内面で経験をどう捉えるかと、他者の行為の責任や自分の境界線は別です。不当な行為には距離を取る、助けを求めるなど具体的な対応が必要な場合があります。

あわせて読みたい|「私」をめぐる、ほかの問い

「私は在る」という言葉が気になったら、別の入口から「私」や「気づき」を眺めてみるのも面白いですね。ラマナ・マハルシの自己探求、トールの「今ここ」、そして「悟りたい」と願うほど苦しくなる不思議。それぞれ、問いの向かう先が少しずつ違います。

まとめ|「私は在る」という短い言葉が開く、長い探究

「私は何者か」を説明する言葉は、たくさんあります。役割、能力、性格、成功、失敗。私たちはその言葉を使って、自分のことを理解しようとします。

リリさんの『在る視点』は、そこで立ち止まって、「そうした言葉を全部外したら、そもそも何が在るのだろう?」と問いかけます。そして、その問いを「無条件の愛」「赦し」「現実に寄り添う悟り」という方向へ広げていきます。

自分がその見方に共感するかどうかにかかわらず、日ごろ「これが私だ」と思っていたものを、少し離れて見てみる。そこから意外な発見が生まれるかもしれません。

そとがわメソッドの認識と反応の仕組みにも興味があれば、無料講座0時間目から読んでみてください。

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この記事を書いた人

そとがわメソッド開発者。心理学・自己啓発・潜在意識などを学んでも自己否定が終わらなかった自身の経験から、「自分を変える前に、何が起きているのかを見る」そとがわメソッドを開発。著書『自分を否定しない練習』。
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