新しい職場に入ったとします。仕事はまだ覚えている途中です。そんなとき、先輩からこう言われました。
「分からないことがあっても、まずは自分で考えて動いてね」
なるほど。自分で判断できる人が、仕事のできる人なのですね。半年もすれば、その考えが自分の中でも当たり前になるかもしれません。
ところが、同じ人が別の職場に入ったら、今度はこう言われます。「分からないまま動かず、必ず確認してから進めてね」。こちらも、もっともな話です。
自分で考えて動くのが当然。勝手に動かないのが当然。 まったく反対のことが、それぞれの場所で「仕事の常識」になっています。
もちろん、仕事の危険性や責任の範囲が違えば、適切な手順も違います。それにしても不思議なのは、その職場を離れたあとまで「こちらが正しい」という感覚が残ることです。
その考えは、いったいどこから来たのでしょう。「自分の考え」だと感じているものは、自分一人で作ったものなのでしょうか。
この疑問から、人間の思考を「一つのシステム」として考えた人物がいます。理論物理学者のデイヴィッド・ボーム(David Bohm、1917–1992)です。今回は著書『Thought as a System』の出版資料と本人の対話記録を手がかりに、思考が個人の中だけで完結しないという見方を探ります。
まず、同じ新人が二つの職場で過ごすと何が変わる?
最初の職場をA社、次の職場をB社とします。A社では、判断して動く人が褒められます。B社では、確認してから動く人が褒められます。
- A社での経験:自分で決める → よい評価を受ける → 「先に動くのが誠実だ」と思いやすくなる。
- B社での経験:確認する → 安全に仕事が進む → 「勝手に動くのは無責任だ」と思いやすくなる。
ここで変わっているのは、単に「上司に合わせる返事」だけではありません。先輩の言葉を聞いていないときも、どちらの行動を「当然」と感じるかが変わるかもしれないのです。
つまり、集団の言葉は、個人が取り入れて使う判断基準にもなり得ます。もちろん実際にどう学ぶかは経験や状況によって異なり、これは全員に起きると確かめた実験結果ではなく、考えるために用意した例です。
周りの意見が目の前の回答を変える「同調」とは、ここを区別できます。同調行動自体はアッシュの実験と周囲の意見を扱った記事で詳しく紹介しています。本記事で知りたいのは、誰も見ていないときにまで、何が「正しく見えるか」を支える仕組みです。
デイヴィッド・ボームとは? 物理学者が思考と社会を問い直した
ボームは1917年生まれ、1992年没の理論物理学者です。量子論の解釈をめぐる仕事でも知られ、ロンドン大学バークベック・カレッジで研究を行いました。後年は思考、知識、対話、社会的な分断にも関心を広げました。
1994年刊の『Thought as a System』の出版社紹介では、思考を単に「外の世界を正確に映すもの」と見なす立場を問い、思考が知覚・意味・日々の行動に能動的に関わるという論点が説明されています。書籍は参加者とのセミナーを編集したもので、一般向けの心理学教科書というより、問いを重ねる哲学的な対話の記録です。
さらに本人が編集した1989年のセミナー記録『Proprioception of Thought』、そして本人の文章「On Dialogue」にも、同じ問題意識が展開されています。この記事では、1994年の本に載っていると確認できない細部を、別の講話から移して「本の一節」とは書きません。
なお、量子物理学者が話したからといって、この思考論が量子実験によって証明されたわけではありません。物理学での研究と、本人の人間・社会についての考察は分けて読みます。
「思考はシステム」とは、頭の中に機械があるという意味?
「システム」と聞くと、コンピューターや工場のようなものを思い浮かべるかもしれません。でもボームが問題にしたのは、部品が別々に働く機械の話というより、互いに影響し合う過程を、切り離して眺めていないかということでした。
普段、私たちは「考え」「気持ち」「身体」「行動」を別々のものとして話します。「頭では分かっているけれど気持ちは違う」「気持ちとは無関係に身体が緊張した」といった表現です。便利な区分ですが、それぞれが全く関係なく生まれるわけではありません。
1989年のセミナーでボームは、「thought(思考)」を知的な文章だけでなく、記憶の反応、感情や身体の反応などを含めた広い過程として使うことを提案しています。これは日常語としての「思考」より広い、ボーム自身による用語の使い方です。すべての身体反応が思考だけで説明できると証明した、という意味ではありません。
たとえば、誰かから「そのやり方は違う」と言われた瞬間。
- 聞こえた言葉を理解する。
- 以前の失敗や叱責を思い出す。
- 「能力がないと思われたかも」と感じる。
- 顔が熱くなったり、声が小さくなったりする。
- その後の仕事で、確認を増やす。
こうしたことが連続して起こり得ます。あとから「思考が先、感情が次」と整理することはできますが、実際の経験では互いに影響し合い、境目がはっきりしない場合もあるでしょう。ボームは、このまとまりを見ようとしたのです。
思考は世界を「報告するだけ」なのか?
ここが、この思想のとりわけ面白いところです。
A社の人が「分からないことは自分で考えろ」と言う。聞いた人は「自分で判断できないと認めてもらえない」と考え、質問を控える。周囲には、質問せず動く人が増える。すると、「ほら、ここの職場は自分で動くのが普通だ」という説明が、ますますもっともらしく聞こえる。
最初は誰かの考えだったものが、ふるまいを生み、そのふるまいが次の人の判断材料になる。思考が状況を説明すると同時に、その状況の一部を作っているように見えます。
ボームは1989年のセミナーで、社会制度や組織には人々の共有する概念が関与すると論じつつ、山そのものを思考が作ったわけではないとも区別しています。つまり「思考が物理的な世界を自由自在に創造する」という主張へ読み替えるのは不正確です。
ここでの問いは、目の前のすべてが思考の産物なのかではなく、自分が「もともとそこにある」と思っている社会的な現実に、過去の考え方や行動がどれだけ参加しているのかなのです。
一人の「常識」が、どうやってみんなの「常識」になる?
① 最初は理由のある決まりだった
たとえば食品工場で、作業前のダブルチェックが徹底されているとします。異物混入を防ぐために必要な手続きかもしれません。安全上の根拠がある決まりと、単なる思い込みを一緒にすることはできません。
② 理由を知らなくても、やり方は引き継がれる
次に来た人は「この職場ではこうする」と学びます。手順を繰り返すうちに、「なぜそのやり方なのか」を説明できなくても、それが自然な手の動きになるかもしれません。
③ 決まりを疑う人の方が、特別に見える
別の職場の人が違う手順を持ち込むと、「そんなの危ない」「常識がない」と反応することがあります。実際に危険な変更なら止めるべきですが、ただ慣れないだけの場合もあります。正当な安全基準への対応と、慣れたやり方を守りたい感覚は、同じ言葉で語られていても別です。
ボームが「On Dialogue」で書いた文化的な前提の例には、自分自身のアクセントには気づきにくいという説明があります。話し方の癖は周りから指摘されて初めて分かることがある。文化の中で学んだ前提も、それに少し似ているというのです。
ここでの発見は、「誰かが勝手に常識を押しつけている」という話だけではありません。自分自身も、その常識を日々使い、次の人へ伝える側になっているのかもしれない、という点です。
「みんなそう言っている」は、一人の意見の何倍の根拠になる?
ある家族で、長い間「旅行の予定は必ず一か月前に決めるもの」と言われてきたとします。祖父母も親もそう言う。子どもも、いつしかそれが当然だと思っている。
ところが、聞いてみると、最初の理由は「昔は予約を取りにくかったから」だった。今は予約方法も環境も違います。なのに、全員がその決まりを支持しているので、誰かが「もう少し自由でよくない?」と言うと驚かれます。
これは架空の家族の例です。旅行の予約を早くする方が有利な場合もありますし、家族全員の都合を合わせるには事前計画が必要なこともあります。大切なのは、「昔から全員がそうしている」という情報と、「今の条件でも必要である」という根拠が別だということ。
複数の人が同じことを信じていると、根拠が何倍にも増えたように感じるかもしれません。しかし、一つの考えが繰り返し伝えられただけなら、賛成する人数と、独立した根拠の数は一致しないことがあります。
一方、全員が独立に調べて同じ結論に到達したなら、その一致自体が意味を持つこともあります。ここを区別せず「多数決は全部間違い」としてしまうと、別の思い込みになります。
ボームが対話を大切にした理由|正解を勝ち取るためではない
思考が社会の中で共有されるなら、その仕組みを個人の頭の中だけで理解することには限界がある。そこでボームが重視したのが「ダイアローグ(dialogue、対話)」です。
本人の「On Dialogue」では、自分の意見を勝たせるための議論と、互いの前提や意味がどのように現れるかを一緒に見ていく対話を区別しています。全員を同じ結論に説得することが目的ではないとも説明しています。
そこで重要になるのが、彼のいう「suspension(保留すること)」です。自分の意見を消したり、正しいと思っていることを捨てたりするのではありません。すぐに反論して守る、すぐに賛成して固定する、その動きをいったん脇に置き、何が起きているかを見る。
たとえばA社の先輩とB社の先輩が話すなら、「考えて動くべき」「確認するべき」を勝負させるだけでなく、どんな経験や危険を前提にそう考えているかを互いに見ていく。そうすると同じ「責任感」という言葉でも中身の違いが浮かび上がります。
ただし、対話は安全規則や契約上の責任をいったん無効にするものではありません。業務で急いで判断しなければならない場面と、じっくり前提を探る場面は別です。
ちょっと意外な言葉|「思考の自己感覚」とは何を指す?
1989年のセミナー『Proprioception of Thought』には、独特の問いが出てきます。身体を動かすとき、目を閉じていても自分の手が動いたことがある程度わかります。こうした身体の位置や動きの感覚を「固有受容感覚(proprioception)」といいます。
ボームはここから、「思考も自分が何をしているか、その働きを感知できないだろうか」と問いかけました。頭の中に固有受容感覚の専用器官が実在すると発見した、という話ではありません。身体運動を手がかりにした、思考の働きそのものを知るという哲学的な提案です。
例えば「あの人はいつも無責任だ」と考えた直後、胸が苦しくなり、会う前から身構える。その状態を「相手が危険である証拠」と感じることもあれば、「私は相手についてこう考え、その結果として反応しているのかもしれない」と気づくこともあります。
どちらの解釈が正しいかは、実際の相手の言動や状況を確かめなければ決まりません。ボームが問うのは、考えが反応に参加していても、自分の考えはただ事実を報告しただけだと感じやすいという見落としです。
思考の自己感覚を、考えを完全に制御する能力や、すべての身体症状の原因が思考だとする説明に置き換えないことも大切です。
クリシュナムルティとボームは、同じことを言っていたの?
二人は実際に対話を重ねました。1975年のクリシュナムルティ財団公開の対話記録には、思考が記憶から一部を取り出して世界を捉えること、思考自身がその断片性に気づけるのかという話が登場します。
しかし今回、同じ思想だとまとめてしまうと、面白い違いが消えてしまいます。
- クリシュナムルティ:心理的な「観察者」と「観察されるもの」の分離を問い直す。前の記事では「考える私」の成立に焦点を当てました。
- ボーム:思考・感情・身体・知覚・社会的な意味をつながった過程として考え、とくに集団の対話で自分たちの前提がどう動くかを探る。
問いが交わることはありますが、誰のどの言葉も同じ意味だとは限りません。ボームの対話論には、個人の意識だけでなく、互いの考え方がつくられ、受け渡される場そのものを見ていく面白さがあります。
そとがわメソッドの視点からは、どこにつながる?
ここからはボーム本人の定義ではなく、そとがわメソッドの立場からの読み解きです。
最初の「自分で考えて動ける人が仕事のできる人だ」という経験に戻ってみます。この言葉を聞く前から、その人にはさまざまな感覚・記憶・予測や判断の働きがあります。相手の話を理解するときにも、知覚・認識の過程が関わっています。そこへ職場の評価や経験が重なり、「確認してはいけない」「自分で決めないと認められない」という意味が、次第に自分にとって現実味を持つかもしれません。
同じやり方でも、A社では誇らしく、B社では怖く感じる。そのとき大切なのは「どちらの価値観が悪いか」を決める前に、何が見えていて、何を普通と判断し、どんな反応が生まれているのかという仕組みに目を向けられることです。
そとがわメソッドでは、人がどのように現実を認識し、その中で認知を作っているのかという全体を扱います。認識に含まれる意味づけや反応だけでなく、それらを見ている「観察点」や「私」の感覚も探究に含まれます。
ボームの思想と重なるのは、思考・感情・身体・共有された前提が当然の現実のように経験される、その成立過程への関心です。一方、ボームの「思考というシステム」「集団の対話」はボームの探究であり、そとがわメソッドと同じ理論だとする根拠はありません。
「分かっているのに会話がかみ合わない」場面では、前提の違いを扱う記事も参考になります。また考えが事実のように感じられる仕組みは、別の角度から同じ不思議を追っています。
「その考えは誰から来たの?」という問いを、日常に持ち帰る
ある日、「普通はそうするでしょ」と言いたくなったとします。
その「普通」が役に立つ基準なら、そのまま使って構いません。危険を防ぐためのルールなら守る必要があります。反対に、以前の環境では便利だったけれど、今は条件が違うということもあるでしょう。
面白いのは、「何が正しいか」を判定することだけではありません。その判断基準を、いつ、どこで、誰とのやり取りの中で覚えたのだろうと考えてみることです。
親から聞いた言葉。学校で何度も言われたこと。職場で褒められたやり方。ネットで毎日目にする評価。それらは自分とは無関係な「外の意見」だったはずなのに、いつの間にか「自分の意見」として語られています。
もちろん、受け継いだ考えを使うことは悪くありません。言葉自体、ほとんどを人から学ぶのですから。ただ、「私は自分で考えた」と思うとき、そこにはどれほど多くの人の考えが混ざっているのでしょう。
それを知ったところで、何かを急いで変える必要はありません。自分だけのものだと思っていた思考が、思いのほか大きなつながりの中で動いている。そう考えると、身近な会話が少し違って見えてきませんか。
人間の「当たり前」が作られる仕組みをもっと知りたい方へ
ある言葉を聞いて、意味が生まれ、判断や反応が起こる。しかも、その言葉や判断基準は、他者との関係の中で学んできたものかもしれません。無料講座0時間目では、こうした日常の経験を入口に、私たちが現実を認識する仕組みを紹介しています。
原典・参考資料|ボーム自身の著作と対話を読む
以下は、本文で述べたボームの思想と来歴を確認できる資料です。実験で実証された心理学的法則として扱うのではなく、本人が何を問題にしたかを理解するために参照しています。
- Routledge, David Bohm, Thought as a System (1994):出版元による内容・書誌情報。書籍全文の精読ではなく、出版元の紹介を参照。
- Google Books, Thought as a System 書誌:1994年刊行と書名・著者・出版社を確認できる公開書誌。
- David Bohm, Proprioception of Thought (1989年セミナー、1990年著者編集):思考の広い定義、記憶、身体反応、共有された思考、固有受容感覚の比喩。本人が編集した講話の第三者公開書き起こし。
- David Bohm Society, David Bohm, “On Dialogue”:対話、固定された意見、文化的前提、共有される意味についての本人の文章。
- Routledge, David Bohm, On Dialogue(書誌・目次):対話論の収録範囲の確認。
- Krishnamurti Foundation Trust, “Dialogue 8, Gstaad, 25 July 1975”:クリシュナムルティとボームの実際の対話記録。
職場のA社・B社、旅行の家族、食品工場の話は本文の理解のために作った比較例であり、ボーム本人の講話に出てくる実話ではありません。講話の公開書き起こしは本文で直接確認しましたが、原音声全編の逐語校訂および『Thought as a System』全文の精読は未実施です。
よくある質問
関連記事|「普通」「前提」「同調」を別の角度から見る
ボームの議論は思考が個人と集団で共有される仕組みを探りました。実際に周囲に合わせて判断が変わる場面、同じ言葉でも前提が違う場面、思考が事実に感じられる場面を、次の記事ではそれぞれ別の角度から考えられます。
まとめ|「私の意見」は、どこから「私のもの」になったのだろう
最初の二つの職場を思い出してみてください。自分で判断して動くのが当然だと思う人もいれば、まず確認するのが当然だと思う人もいる。違いはその人の能力や性格だけで決まるとは限りません。
人は教わった言葉を使い、場に合わせて行動し、評価され、その経験を次の判断へ持ち込みます。そして、自分が取り入れた考え方を、いつか誰かに「普通はこうでしょ」と伝える。
ボームが指し示したのは、こうした個人と集団の思考が、互いにつながりながら動くという見方でした。思考は、現実を説明するだけの透明な窓ではなく、認識や意味や行動に関わるかもしれない。
「自分の考えだから、他人の影響なんてない」と思う必要も、「誰かに教わった考えだから、捨てるべきだ」と思う必要もありません。
今の私には当たり前に見えていること。それは、誰とのどんな経験から当たり前になったのだろう。 その小さな問いから、日常の世界はもう少し面白くなるのかもしれません。
日常の「普通」が出来上がる、もっと手前の仕組みへ
人の言葉を聞いた瞬間に何が見え、どんな意味が生まれ、どこから反応しているのか。そうした人間の認識そのものに興味がわいたら、そとがわメソッドの無料講座0時間目から読めます。

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