禅の「気づき」と「判断しない」とは?道元の非思量を日常から考える

坐禅で「何も考えてはいけない」「良い・悪いと判断してはいけない」と聞くと、座っている間、いったい何をすればいいのか分からなくなりませんか。

たとえば静かに坐っていたら、ふいに「明日の仕事、どうしよう」と浮かぶ。そこから「準備が足りない」「あの人に何と言おう」と考えが続き、気づくと頭の中で明日の会議が始まっている。そんなことは珍しくありません。

ここで最初に知っておきたいのは、考えが浮かぶのは自然なこと。でも、浮かんだ考えを追いかけ続ける必要はない、ということです。かといって、頭の中から追い払う必要もありません。「また考えてしまった。失敗だ」と採点しなくてもいい。

ただし、これは「身体の感覚にずっと集中しなければならない」という訓練とも少し違います。姿勢と呼吸を整えて、今ここに坐る。その中で思いが浮かんでも、つかまえず、無理に消そうともしない。道元禅師が伝えた「非思量(ひしりょう)」を知る入口は、このあたりにあります。

では、禅の「善悪を思わず」はどういう意味なのでしょう。坐禅中に評価を追いかけないことと、日常で必要な判断をすることは両立するのでしょうか。曹洞宗の教えと身近な場面を手がかりに見ていきます。

目次

坐禅中は何をする? 考えが浮かんでも、追いかけなくていい

まず、坐っている場面を思い浮かべてみてください。床に坐り、姿勢を整え、呼吸をしている。すると「さっきの返事、冷たかったかな」と思い出す。その考えが現れたこと自体を、間違いにしなくていいのです。

そこから「あの人は怒ったかも」「明日会うのが怖い」「何と弁解しよう」と考えをつないでいくこともできます。でも、坐禅の最中にその物語を続けなければならないわけではありません。思いが浮かび、また別の思いが浮かぶ。そのたびに追いかけることも、追い払うこともせず、坐っています。

もし途中から考えを追いかけていたことに気づいても、「集中力がない私はだめだ」と反省会を始めなくていい。気づいたところで、その反省会まで続けずに坐る。「考えないことに成功する」のではなく、考えと格闘しなくてもいいのです。

「気づく」と聞くと、自分の心や体の状態を見つけて、名前をつけることを想像するかもしれません。けれども道元が説いた曹洞宗の坐禅では、浮かんだ思考や感情を一つずつ分析することが目的ではありません。

曹洞宗の公式サイトでは、坐禅を「只管打坐(しかんたざ)」、つまりただひたすらに坐ることと説明しています。心を落ち着かせる、能力を高める、悟りという成果を手に入れる。そうした別の目的のための手段として坐るのではない、という教えです。

これは、いつもの生活と少し順番が違います。学校なら試験に受かるために勉強し、仕事なら成果を出すために作業する。でも道元の坐禅は「坐っている今」を、未来の結果と引き換えにしません。姿勢や呼吸は坐るための土台であって、過去や未来のことを一切考えなくなったかどうかを測る試験ではないのです。

「何も得られないなら、なぜ坐るの?」と疑問が浮かぶところこそ、禅の面白い入口です。

「禅」は一種類ではない

禅には曹洞宗・臨済宗など複数の伝統があり、修行で重視することも一様ではありません。公案を参究する伝統もあります。ここから紹介する「只管打坐」「非思量」は、特に道元と曹洞宗の坐禅を軸にした説明です。「禅は全部こうだ」と読む必要はありません。

じゃあ、実際の坐禅では何をするの?

頭の中で思考を追いかけなくてもいいとして、身体はどうしているのでしょう。坐禅は「頭だけで何かを理解するイベント」ではありません。曹洞宗では、調身(姿勢)・調息(呼吸)・調心(心)を大切にしています。

曹洞宗公式の坐禅の作法には、坐蒲を使った足の組み方、手の組み方、上体の姿勢、自然に開いた目と視線、呼吸の整え方まで具体的に載っています。目をぎゅっと閉じて「無」になろうとする絵とは、少し違いますね。

呼吸している身体は、この場にあります。一方、「昨日あんなことを言った」「来週は大丈夫だろうか」という思考は、過去や未来の話を始めます。頭の中に別の時間の話が浮かんでも、それにずっと連れていかれなくていい。そう考えると、坐禅中の過ごし方が少し想像しやすくなります。

足が組めなくても、椅子に坐る入口がある

曹洞宗はいす坐禅のきほんも公開しています。足の組み方に無理がある人にまで、無理やり同じ姿勢を要求する必要はありません。

初めての人なら、まず姿勢を整え、自然に息をする。息や身体の感覚は、今ここに坐っていることを感じる手がかりにもなります。ただし身体の感覚に注意を固定し続けることが、只管打坐の目標というわけではありません。過去の出来事や未来の予定が浮かんでも、追いかけたり、無理に消したりせず坐る。詳しい作法は、寺院や指導者の案内を参照できます。

思いが浮かんだことを失敗扱いしない。「今、心を整えられたか」を十秒ごとに採点しない。その点は、ここまでの話ともつながっています。

「善悪を思わず」――良い・悪いを判断しないってどういうこと?

道元の『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』には、坐禅に入る際の心構えとして「善悪を思わず、是非を管すること莫れ」という趣旨の一節があります。曹洞宗の公式英訳や、駒澤大学による解説でも確認できます。

ここで一つ、場面を変えてみましょう。

ある人が静かに坐っています。すると隣の部屋から物音がしました。途端に頭の中で声が始まります。「うるさいな」「こんな日に限って」「集中できない私はだめだ」「静かな場所ならうまく坐れるはずなのに」。

最初にあったのは物音です。でも、気づいたら「うるさい部屋」「邪魔された私」「失敗した坐禅」という物語が何段階にも増えています。

坐禅の文脈で、好き嫌い・正誤の分別をいったん手放すとは、その物語をもっと立派な物語へ書き換えることではありません。「この音にも感謝しよう」と評価を反転させるのとも、少し違います。思いを追いかけて評価し続ける働きに、そのまま乗っていかないという方向です。

だから「悪いと考えてしまった。私の坐禅は失敗だ」と採点を始めるのも、よく見ると、判断をやめようとして新たな判断を増やしています。ちょっと笑える逆転現象ですね。

道元の「非思量」とは? 何も考えないことではない

『普勧坐禅儀』には、さらに奇妙な問答が出てきます。「不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量」。

ふつうの言葉にすると、「考えないところを、どう考えるのか? 非思量だ」といったやり取りです。……これ、考えれば考えるほど、なんだか分からなくなりませんか。

『普勧坐禅儀』を紹介する曹洞宗の教化センターは、非思量を、頭に浮かぶさまざまな思いにとらわれないこととして解説しています。無念無想になろうと努力することとは違う、とも説明しています。言い換えれば、「思いは浮かぶ。でも、その続きを考えることまで引き受けなくていい」という、坐禅の姿を理解する手がかりになります。

「思量」「不思量」「非思量」を並べてみる

  • 思量:あれこれ考え、比べ、答えを出そうとする働き。
  • 不思量:思い量らないこと。文字だけなら「考えない」に見える言葉。
  • 非思量:考えを無理に消すのでも、考えを追いかけるのでもない、道元が坐禅の要として示したあり方。

三つ目を、ただの「無思考」という状態に置き換えてしまうと、思考のない時間を測定する競争が始まります。「さっきは3分間いけた」「今日は雑念が多いから減点」。そんな競争なら、坐禅を始める前より忙しいかもしれません。

つまりポイントは、思考がゼロだったかどうかではなく、考えることをめぐる思惑からも自由であろうとするところにあります。もちろん、非思量を日常の一言だけで完全に定義できるわけではありません。言葉にすると、すでに言葉でつかまえようとする営みが始まるからです。

「考えないようにしよう」は、なぜこんなに難しいのか

「今から絶対に白い猫を思い浮かべないでください」。そう言われると、白い猫が頭に登場しそうになりませんか。

猫が出たことよりも面白いのは、その後です。「あ、考えた!」「消さなきゃ」「また考えた」。思考を監視するための思考が、せっせと働き始めます。

だから禅の話を聞いて「私はまだ思考が止まらない」と落ち込んだとき、その落ち込みまで含めて、頭が「よい状態/だめな状態」を分けていることに気づけます。

ここで「気づいたから、その評価も消すべきだ」と新しい課題を作らなくていい。道元が説く坐禅は、評価を消す訓練をして合格点を取るものではないからです。

ただ、これを「思考は全部不要」という意味にもしたくありません。買い物で金額を計算するときも、危険を察知するときも、私たちは考える力に助けられています。坐禅での非思量と、日常で思考を使う必要は、場面が違うのです。

「ただ坐る」の何が面白い? ゴールを決めない只管打坐

私たちは、何かを始めると「どんな効果が出るか」を気にします。散歩をしたら何歩か、読書なら何冊か、睡眠ならスコアがいくつか。

ところが、道元の只管打坐に「今日は集中力が2割アップしたから成功!」という採点表を持ち込むと、そもそもの発想からずれてしまいます。公式の説明では、坐禅は別の成果を得るための手段ではなく、坐ることそのものが修行であり、悟りの姿だとされます。これは修行と悟りを二段階に分けない「修証一等」の考え方ともつながります。

ここに意外な問いがあります。私たちは何かをするとき、いつも「それで何が得られる?」と問う。でも、何かを得る条件を満たさなければ、今やっていることには価値がないのでしょうか。

坐禅を始めて5分で雑念だらけになったとして、その5分は「目的を達成できなかった失敗作」なのか。道元の教えは、その測り方自体を疑う入口を作ってくれます。

日常の「気づき」と比べると、何が違って見える?

例1|同僚の一言が気になった日

同僚が「今日は早いね」と言いました。一人は「気にかけてくれた」と受け取り、別の人は「いつも遅いと思われてる?」と受け取りました。音としての言葉は同じでも、その言葉を聞いた後に広がる意味は違います。

日常の人間観察としては、「何を言われたか」と「どう解釈したか」を分けると、反応の仕組みが見えてきます。一方、坐禅をしている最中なら、「あの人にこう言い返せばよかった」という続きの会議に、延々と参加しなくてもいい。

ここで重要なのは、同僚の意図を確認したり、必要なら話し合ったりすることが間違いになるわけではない点です。坐禅のあり方と、現実の会話への対応は別の仕事をしています。

例2|落ち葉を見て「きれい」と思った

庭の葉が落ちていきます。「きれいだな」と感じるかもしれないし、「掃除が大変そう」と思うかもしれません。どちらも、その瞬間の人の受け止め方です。

では「きれいと思った。良し悪しの判断をしてしまった!」と悩む必要があるのでしょうか。そんな採点を始めたら、風景を見るよりも、自分を監督する仕事が忙しくなります。

禅に関心を持つなら、感想が出ることをわざわざ罰するよりも、それを握りしめて物語を育て続ける必要があるのか、という問いの方が面白そうです。

例3|皿洗いが「面倒な修行」になったら

お皿を洗っているとき、「あと10枚もある」「なんで私ばかり」と思いが浮かぶことがあります。実際に家事が偏っているなら、分担について話す必要があるでしょう。

でも、いま洗っている一枚の皿に手を動かしている時間と、頭の中で明日の会議まで開いている時間は、同じではありません。曹洞宗は掃除や調理、食事などの日常行為にも修行の意味を見いだします。曹洞宗岩手県宗務所の説明では、日々の行いを大切に務めることを説いています。

これは「皿洗いを好きになれ」という命令ではありません。目の前のことと、そこに次々と増えていく評価を、同じものにしないという眺め方です。

「判断しない」と「必要な判断までやめる」は、まったく違う

ここは少し丁寧に分けたいところです。

坐っているときに「あの人は悪人だ」「私は失敗作だ」と頭の中で判定を重ねないことと、道路を渡る前に車が来ているか確かめることは、対立しません。前者は自分の思惑へのとらわれ方、後者は現実に必要な判断です。

誰かに傷つけられたなら、怒りを感じてもよいし、事実を確かめ、距離を置き、責任を求める必要があるかもしれません。「善悪を思わず」という言葉は、被害の有無や行動の責任を消す免罪符ではありません。

むしろ、「感情にのみ込まれること」と「状況に必要な対応を選ぶこと」を分けて考えられるのが、日常に禅の教えを持ち込む際の一つの面白さです。ただしこれは、坐禅の原典の言葉を生活の例で理解するための比較であり、寺院の修行そのものを代替する方法ではありません。

禅とマインドフルネスは同じ? 「観察」の仕方を比べる

どちらも「今」に関係し、評価にとらわれすぎないという言葉が出てきます。そのため同じものに見えるかもしれません。でも、扱う問いには違いがあります。

駒澤大学の比較解説は、現代のマインドフルネス瞑想では、今の体験に意識して注意を向け、感情や思考を言葉にして捉えることがある一方、道元の只管打坐・非思量は、体験を客観的に分析・ラベリングする活動を目的にしないと説明しています。

たとえば怒りが出たとき、マインドフルネスの説明では「怒りがある」と気づき、注意を向け、評価を加えずに扱うことができます。一方、曹洞宗の只管打坐は、「いま自分の怒りを何種類に分類できたか」を測る課題ではありません。ただ坐るという全体のなかで、思いにとらわれないことが重視されます。

もちろん、マインドフルネスにもさまざまな流派と実践がありますし、禅も一種類ではありません。「どちらが本物か」と勝敗をつけるより、何を実践しているときの、どんな『気づき』なのかを比べてみる方が、発見があります。

そとがわメソッドから眺めると|反応はどこで増えている?

そとがわメソッドでは、出来事をどう認識し、その中でどんな意味づけや反応が生まれるのか、その仕組みを探究しています。

たとえば「坐禅中に物音がした」から「邪魔された」、さらに「集中できなかった私はだめだ」と進む様子は、反応が重なっていく面白い例です。道元の非思量や只管打坐を学ぶと、今度は「その反応をうまく観察できたか」という採点さえ必要なのだろうか、と別の問いが浮かんできます。

禅が伝えてきたことを、禅の教えとして知る。そのうえで、自分の認識や反応を観察する。行き来してみると、どちらの問いもいっそう面白くなります。

認識と反応の仕組みにも興味があれば

同じ言葉を聞いても、人によって受け止め方が違うのはなぜでしょう。そとがわメソッドの無料講座0時間目では、日常の場面から、私たちが出来事を認識する仕組みを紹介しています。

参考資料|道元の言葉を原典・専門資料でたどる

この記事で紹介した「善悪を思わず」「非思量」「只管打坐」は、以下の曹洞宗公式資料と大学の解説を照合しています。原典の言葉には読解の幅もあるため、興味が湧いたらぜひ元の文章を訪ねてみてください。

よくある質問

禅で「良い・悪いを判断しない」とは、善悪が存在しないという意味ですか?

ここで紹介した曹洞宗の『普勧坐禅儀』は、坐禅の際に善悪・是非への分別にとらわれないことを説きます。日常生活で危険を見極めたり、他者の行為の責任を判断したりすることまで禁止しているわけではありません。

非思量とは、頭の中を真っ白にすることですか?

いいえ。考えが浮かぶのは自然ですが、その続きを追いかける必要はありません。無理に消そうとする必要も、「考えてしまった」と採点する必要もありません。曹洞宗の教化資料でも、無念無想を目指すことより、浮かぶ思いにとらわれないことが説明されています。

雑念が浮かぶと坐禅は失敗ですか?

いいえ。雑念が浮かぶことも、それをしばらく追いかけていたことも、即座に成功・失敗と採点する必要はありません。気づいたところから、考えを追い払うことも追いかけることもせず坐ります。曹洞宗では、姿勢と呼吸を調えてただ坐ることを大切にします。

禅とマインドフルネスは同じものですか?

共通する表現はありますが、同一ではありません。現代のマインドフルネスには注意を向けて経験をラベリングする実践があります。一方、道元の只管打坐は体験を分類・分析することを目標にしないと説明されます。禅にもマインドフルネスにも複数の実践があります。

坐禅は足を組まないとできませんか?

曹洞宗公式サイトには伝統的な坐禅の作法に加え、椅子に坐って行う「いす坐禅」の説明もあります。姿勢に無理がある人は公式の案内や寺院の指導を参考にしてください。

禅で判断にとらわれないなら、怒ったり相手に抗議したりしてはいけませんか?

いいえ。怒りが生じること、頭の中で評価が膨らむこと、実際の不当な行為への対応は別の問題です。必要な境界線や抗議、安全を守る行動を放棄しなければならないわけではありません。

関連記事|禅から広がる、仏教と「今ここ」の問い

道元の坐禅を知ると、「苦しみはどんな条件で生まれるのか」「『今ここ』とは何なのか」「悟りを目指すことが苦しみになるのはなぜ?」と、別の問いも浮かんできます。それぞれ別の記事で探究できます。

まとめ|判断しない人になるのではなく、「判断する私」にもとらわれない

禅の言葉は、最初は少し矛盾して聞こえます。「善悪を思わず」「考えないところを思量する」「ただ坐る」。ところが一つひとつ見ていくと、どれも心の働きを管理して合格点を取るという、いつもの発想とは違うところを向いています。

考えが浮かぶのは自然です。「あのとき」「これからどうしよう」と、過去や未来へ話が進むこともあります。でも、坐禅中にその続きを追いかける必要はないし、考えを消そうとする必要もない。さらに「こんな私ではだめだ」という採点が浮かんでも、その採点にまで付き合い続けなくていいのです。

一方で、日常の安全、責任、人との約束を判断する力はそのまま必要です。「判断しない」を文字どおりに生活のすべてへ広げるのではなく、道元が何のために、どの場面で語った言葉なのかを知るほど、その面白さが見えてきます。

静かに坐ることには、静かに坐ることとしての意味がある。「それで何を得た?」と聞きたくなる自分を見つけたら、それだけでも、なかなか興味深い発見かもしれません。

人が出来事をどう受け取り、そこからどんな反応が生まれるのかという仕組みも気になったら、無料講座0時間目から覗いてみてください。

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この記事を書いた人

そとがわメソッド開発者。心理学・自己啓発・潜在意識などを学んでも自己否定が終わらなかった自身の経験から、「自分を変える前に、何が起きているのかを見る」そとがわメソッドを開発。著書『自分を否定しない練習』。
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