突然ですが、質問です。
夕飯って、家族みんなで食べるものですか?
……。
「え? そりゃあ、家族なんだから一緒に食べるでしょ」
と思った人もいるでしょう。
一方で、
「帰ってきた人から食べればよくない?」
と思った人もいるかもしれません。
さて、ここで、二人が一緒に暮らし始めたとします。
一人は、家族がそろってから夕飯を食べる家庭で育ちました。
もう一人は、お腹がすいた人から食べる家庭で育ちました。
ある日、一人が仕事から帰ってきます。
「ただいまー!」
すると、相手はすでに夕飯を食べ終わっていました。
「えっ、もう食べたの?」
「うん。お腹すいたから」
「……なんで待ってくれなかったの?」
「え? なんで待たなきゃいけないの?」
……。
まだ夕飯の話しかしていないのに、何だか険悪な雰囲気です。w
でも、ちょっと考えてみてください。
どちらかが、とんでもない悪事を働いたのでしょうか。
一方は、家族と一緒に夕飯を食べるのが当たり前でした。
もう一方は、お腹がすいたら食べるのが当たり前でした。
どちらも、自分の家では特に不思議なことではなかったんです。
ところが、その二つの「普通」が出会った瞬間、
「なんで?」
という疑問が生まれました。
しかも、この話は夕飯だけでは終わりません。
家事。
休日。
親への連絡。
誕生日のお祝い。
家族が落ち込んでいるときの対応。
どれも、家庭によって違う場合があります。
そして、あまりにも当たり前すぎて、違う家庭のやり方に出会うまで、その違いに気づかないこともあるんです。
今日は、そんな家庭の「普通」がどうやって作られ、なぜ人とすれ違うことがあるのかを考えてみましょう。
たぶん、途中で何度か、
「えっ、それ、うちでは普通だけど!?」
と言いたくなると思いますよ。w
家庭によって「普通」はこんなに違う
まずは、身近なところから考えてみましょう。
例えば、夕飯です。
家族全員で食べる家庭があります。
一方、仕事や学校などの都合に合わせて、それぞれの時間に食べる家庭もあります。
では、休日はどうでしょう。
休日は、家族でどこかへ出かける。
そんな家庭もあります。
一方、休日こそ、それぞれ好きなことをする。
という家庭もあるでしょう。
誕生日はどうでしょう。
家族全員でケーキを食べる。
毎年、プレゼントを贈る。
そんな家庭もあります。
でも、特別なことはしない家庭もあるでしょう。
では、家族への連絡は?
「今日は遅くなるよ」
と、必ず連絡する家庭。
帰宅時間を特に確認しない家庭。
それぞれ事情があります。
さらに、家事のやり方だって違います。
洗濯物は、毎日洗うのか。
ある程度まとめて洗うのか。
掃除は、汚れたところを見つけた人がするのか。
曜日や担当を決めるのか。
……。
家事だけでも、いくつの「普通」が存在するのでしょう。w
ここで、少し面白いことがあります。
誰かに、
「うちは洗濯物を毎日洗います」
と説明されたら、
「ああ、そうなんですね」
と思うかもしれません。
でも、
「洗濯物って、普通は毎日洗うでしょ?」
と言われたら、どうでしょう。
何だか、話の雰囲気が変わりませんか。
この違いについて、あとで詳しく考えてみます。
そもそも、家庭の「普通」はいつ決まったの?
さて、最初の夕飯の話です。
あなたは、家族で夕飯を食べる家庭で育ちました。
毎日、家族がそろってから食べます。
さて、ある日、お母さんが言いました。
「我が家の重要な規則を発表します!」
「夕食は、必ず全員がそろってから食べること!」
……。
こんな会議が、毎回あったのでしょうか。
もちろん、実際に決まりとして伝えられた家庭もあるでしょう。
でも、特に説明されないまま、何となくそうなっていた家庭もあるのではないでしょうか。
いつも、みんながそろってから食べていた。
誰かが遅いと、少し待っていた。
食卓で、その日の出来事を話していた。
それが、毎日続いていた。
そして、いつの間にか、
「夕飯は家族みんなで食べるもの」
という感覚になっていた。
そんなことがあるかもしれません。
ここで不思議なのは、最初から「これは正しい習慣です」と教わったわけではない場合でも、自分にとって自然なものになっていくことです。
それは、日常生活で何度も繰り返されていたからかもしれません。
そして、あまりにも自然になると、それが自分の家庭独自の習慣であることに気づきにくくなるんです。
家族心理学では、家庭の日常をどう研究しているの?
実は、家庭の日常的な習慣については、心理学でも研究されています。
2002年、バーバラ・H・フィーゼらは、家庭の日常的な習慣と儀礼に関する研究を整理したレビュー論文を発表しました。
この研究では、日常的な習慣(ルーティン)と、特別な意味を持つ家族の儀礼(リチュアル)が区別されています。
例えば、毎日の夕飯です。
何時に食べるのか。
誰が準備するのか。
どこに座るのか。
こうした、繰り返される行動の形があります。
一方で、
「夕飯は家族が話をする大切な時間」
「みんながそろうことに意味がある」
と考えている家庭もあるでしょう。
すると、夕飯には、単に栄養を取るだけではない意味が加わります。
これは、家族にとっての儀礼的な意味を考える例になります。
もちろん、すべての家庭で夕飯が同じように特別な意味を持つわけではありません。
家庭の文化や状況によって、違いがあります。
フィーゼらのレビューでは、家族の習慣や儀礼と、子どもの適応、親としての働き、夫婦関係などとの関連が報告されています。
ただし、研究方法には限界もありました。
そのため、
「家族全員で毎日夕飯を食べれば、必ず幸せな家庭になる」
と証明されたわけではありません。
家庭の中で何を繰り返し、そこにどんな意味を持っているかが、家族関係を考えるうえで重要な研究対象になっている。
ということです。
参考:Fieseほか(2002)家族の習慣と儀礼に関する研究レビュー
同じ夕飯でも、「食事」と「家族の時間」では話が違う
さて、ここで最初の二人に戻ってみましょう。
一人は、家族で夕飯を食べる家庭で育ちました。
もう一人は、お腹がすいた人から食べる家庭で育ちました。
相手が先に食事を終えていたとき、一人は言います。
「なんで待ってくれなかったの?」
でも、相手は不思議そうです。
「お腹すいたからだけど?」
さて、ここで注目したいのは、二人にとって夕飯が何だったのかということです。
先に食べた人にとっては、食事は、お腹がすいたら取るものだったかもしれません。
一方、待ってほしかった人にとっては、食事は家族が一緒に過ごす大切な時間だったのかもしれません。
さて、そう考えると、どうでしょう。
先に食べた人は、
「食事を済ませた」
と思っているのかもしれません。
でも、待ってほしかった人は、
「一緒に過ごす時間をなくされた」
と感じているのかもしれません。
……。
同じ夕飯の話なのに、そもそも何について話しているのかが違っているんです。
これ、面白いと思いませんか。
一人は、食べることについて話しています。
もう一人は、一緒に過ごすことについて話している。
ところが、二人とも「夕飯」という言葉を使っている。
だから、違う話をしていることに気づきにくいのかもしれません。
いつもしていることには、特別な意味がある場合もある
2007年、メアリー・スパニョーラとバーバラ・フィーゼは、幼い子どもの発達に関わる家庭の習慣と儀礼について、研究を整理しました。
この研究では、家庭の繰り返される習慣が、生活に予測しやすい構造を与えることや、家族にとって意味のある行事が感情的なつながりと関係することなどが論じられています。
例えば、毎晩寝る前に、家族が絵本を読むとします。
子どもにとっては、毎日の習慣です。
でも、その時間が安心につながっていることもあるでしょう。
あるいは、誕生日に毎年同じ料理を食べる家庭があるとします。
外から見れば、ただの料理です。
でも、その家族にとっては、思い出や特別な気持ちと結びついているかもしれません。
ここで、ちょっと考えてみましょう。
ある年の誕生日。
いつもの料理が出てきませんでした。
すると、どうでしょう。
「今日は、あの料理じゃないんだ」
と、少し寂しくなる人もいるかもしれません。
でも、別の人にとっては、特に気になることではないかもしれません。
同じ料理です。
でも、そこに結びついている経験や意味が違うんですね。
参考:Spagnola・Fiese(2007)「Family Routines and Rituals」
家庭には、誰も説明していないルールがある
さて、ここで別の例です。
ある家庭では、誰かが落ち込んでいたら、
「どうしたの?」
と声をかけるのが普通だったとします。
一方、別の家庭では、誰かが落ち込んでいるときは、あえて何も聞かず、そっとしておくのが普通だったとします。
さて、この二つの家庭で育った人が、一緒に暮らし始めたらどうなるでしょう。
一人が落ち込んでいます。
もう一人は、そっとしておく方がよいと思い、何も聞きません。
ところが、落ち込んでいた人は、
「なんで何も聞いてくれないの?」
と思いました。
……。
気を遣って放っておいたら、気を遣っていないと思われました。w
でも、反対の組み合わせも考えられます。
一人が落ち込んでいます。
もう一人が、
「どうしたの? 何かあった?」
と声をかけました。
ところが、落ち込んでいた人は、
「今は放っておいてほしいのに……」
と思いました。
……。
今度は、声をかけたらダメでした。w
さて、どうすればよかったのでしょう。
実際には、相手がそのとき何を望んでいるのかによって違うでしょう。
でも、ここで面白いのは、二人とも、
「自分の家庭では、そうするのが自然だった」
ということです。
しかも、その対応について、子どもの頃から毎回言葉で説明されたとは限りません。
周囲の人がどうしていたか。
どんな反応が返ってきたか。
どんなときに喜ばれたり、嫌がられたりしたか。
そうした経験から、自然な対応を学んできた場合もあるでしょう。
「言わなくても分かるでしょ」は、どこまで通用する?
家族のコミュニケーションについては、暗黙のルールや、家庭ごとの話し合いのあり方も研究されています。
例えば、家族コミュニケーション・パターン理論では、家庭内でどれくらい自由に話し合うのか、家族の考え方をどれくらいそろえようとするのか、といった特徴を考えます。
2012年には、ホスピスでの家族介護をめぐるコミュニケーションについて、この理論を用いた研究も行われました。
そこでも、家族の過去の関係や、明文化されないルールなどが、やりとりを考えるための重要な背景として扱われています。
ただし、この研究はホスピスでの家族介護という特定の場面を扱ったものです。
すべての家庭を、一つのルールで分類できると証明したものではありません。
ここで参考になるのは、家庭のコミュニケーションにも、これまでの経験から作られたパターンがあるという見方です。
例えば、
「家族なら、何でも相談するもの」
という家庭があるとします。
一方、
「家族でも、お互いのプライバシーは大切にするもの」
という家庭もあるでしょう。
さて、これらは、どちらも家族を大切にしていないのでしょうか。
そうとは限りませんよね。
一方は、何でも話せることに親密さを感じているのかもしれません。
もう一方は、相手の領域を尊重することに親密さを感じているのかもしれません。
でも、本人たちにとっては、どちらも自然なことです。
だからこそ、
「家族なんだから、言わなくても分かるでしょ!」
と思ったとき。
その「言わなくても分かる」は、どの家族で身につけたものなのか、考えてみると面白そうですね。
参考:Wittenberg-Lylesほか(2012)家族コミュニケーション・パターンに関する研究
初めて友達の家へ行ったとき、驚いたことはありませんか?
さて、もう少し身近な話に戻りましょう。
子どもの頃、友達の家に遊びに行ったことはありますか。
そこで、びっくりしたことはないでしょうか。
例えば、友達が親に向かって、
「ちょっと、お茶取って!」
と言いました。
さて、どう感じますか。
「えっ!? 親にそんな言い方するの?」
と思った人もいるかもしれません。
一方、
「え? 普通じゃない?」
と思った人もいるでしょう。
反対に、親に対してとても丁寧な言葉を使う家庭もあります。
それを見て、
「すごく礼儀正しい家だな」
と思う人もいるでしょう。
でも、
「何だか、親子なのに距離がある感じがする」
と思う人もいるかもしれません。
さて、どちらが正しいのでしょう。
……それだけでは決められませんよね。
なぜなら、言葉づかいだけで、その家族の関係がすべて分かるわけではないからです。
気軽な話し方が、親しさを表している家庭もあるかもしれません。
丁寧な言葉が、敬意を表している家庭もあるでしょう。
もちろん、言葉づかいが相手を傷つけている場合もあるかもしれません。
それは、実際の関係や状況を見なければ分かりません。
でも、自分が見慣れた家庭のやり方と違うというだけで、
「この家はおかしい」
と決めてしまうなら?
そこには、自分の家庭で身につけた基準が使われているのかもしれません。
「うちでは普通だった」が「普通はこうするもの」になる瞬間
さて、ここまで、いろいろな家庭の違いを見てきました。
では、ここで、最初の夕飯の話を三つに分けてみましょう。
一つ目。
「うちでは、家族がそろってから夕飯を食べていた」
これは、その家庭の習慣についての説明です。
二つ目。
「家族なら、そろって夕飯を食べるべきだ」
これは、行動についての判断です。
三つ目。
「家族で夕飯を食べない人は、家族を大切にしていない」
これは、相手の気持ちや価値観についての評価です。
……。
ちょっと待ってください。
最初は、
「うちでは、そうしていた」
という話だったんです。
でも、気づいたら、
「そうしない人は、家族を大切にしていない」
という話になっています。
夕飯を先に食べたら、いつの間にか愛情審査が始まりました。w
何だか、ずいぶん遠くまで来てしまいましたね。
でも、こうしたことは、日常のいろいろな場面で起こる可能性があります。
例えば、
「うちでは、毎日連絡していた」
という習慣があります。
そこから、
「家族なら、毎日連絡するべきだ」
という判断が生まれます。
さらに、
「連絡しない人は、家族を大切にしていない」
という評価が加わる。
さて、これらは全部、同じことなのでしょうか。
そうではありませんよね。
どこからどこまでが習慣の説明なのか。
どこからが、自分にとって望ましい行動の話なのか。
どこからが、相手についての評価なのか。
一つずつ分けて考えられるんです。
「普通」をめぐるすれ違いは、三段階で起きることがある
ここまでの話を、整理してみましょう。
| 段階 | 夕飯の例 | 何について話している? |
|---|---|---|
| 習慣 | うちでは家族がそろって食べていた | 自分の家のやり方 |
| 基準 | 家族なら一緒に食べるべきだ | どうするのが望ましいか |
| 評価 | 先に食べるなんて私を大切にしていない | 相手の気持ちや人格への判断 |
この三つは、必ず順番に起きるわけではありません。
また、誰もがこのように考えるわけでもありません。
でも、自分の中で話が広がっていくときには、こうした違いが隠れているかもしれません。
例えば、
「なんで待ってくれなかったの?」
と聞いたとき。
本当に知りたかったのは、食事の時間についてだったのでしょうか。
それとも、
「私は、一緒に過ごすことを大切に思っているんだ」
という気持ちを伝えたかったのでしょうか。
あるいは、
「相手は私と一緒にいたくないのかな」
という不安があったのでしょうか。
ここを見てみると、同じ言葉の中にも、いろいろなことが含まれていると分かります。
そもそも、家族の「普通」は誰から学んだの?
さて、ここで、もう少し研究の話をしましょう。
家庭は、子どもが日常的な行動や価値観を学ぶ環境の一つです。
アメリカ心理学会は、親や養育者が子どもの発達に関わり、文化的な価値観や生活習慣を伝える役割について解説しています。
もちろん、子どもの考え方を家庭だけで説明することはできません。
学校。
友達。
地域。
メディア。
本人の経験。
そうしたものも関係します。
でも、家庭の中で、何度も同じ行動を見てきたという経験は、その人にとっての自然なやり方に関係する場合があります。
例えば、子どもの頃から、
「分からないことは、すぐに質問しなさい」
と言われて育ったとします。
すると、大人になってからも、分からないことを早めに質問するのが自然かもしれません。
一方、
「まずは、自分で考えてみなさい」
と言われて育った人もいるでしょう。
すると、自分で調べてから質問することが自然かもしれません。
では、二人が同じ職場に入ったらどうでしょう。
「分からないなら、すぐ聞けばいいのに」
と思う人がいるかもしれません。
「まず、自分で調べてみればいいのに」
と思う人もいるかもしれません。
……。
家庭の普通が、職場に持ち込まれました。w
もちろん、職場には職場のルールや仕事上の必要があります。
安全や業務に関わることなら、そのルールに従う必要があります。
でも、相手の行動に違和感を持ったとき、
「どうして、この人はこうするんだろう?」
と考えることはできます。
参考:アメリカ心理学会「Parents and caregivers are essential to children’s healthy development」
子どもは、親の考えをそのままコピーするの?
ここで、一つ気になることがあります。
家庭の普通が身につくということは、子どもは親の考え方をそのままコピーするのでしょうか。
そう単純ではありません。
1994年、吉川徹・尾嶋史章・直井優は、父親・母親・子どもの社会的態度の関係を調べた研究を発表しました。
この研究では、家族三者の態度の関連について、項目によって異なるパターンが見られました。
例えば、親子の間に比較的強い関連があるものもあれば、あまり関連が見られないものもありました。
つまり、
親がこう考えているから、子どもも必ず同じように考える。
とは限らないんです。
ここ、重要ですよね。
ある家庭で育ったからといって、その人の考え方がすべて家庭だけで決まるわけではありません。
また、同じ家庭で育った兄弟姉妹でも、違う考え方を持つことがあるでしょう。
家庭は、いろいろな影響の中の一つです。
そして、人は成長する中で、さまざまな経験をしていきます。
だから、
「私の家庭ではこうだったから、私は一生こう考えるしかない」
と決まっているわけでもありません。
参考:吉川徹ほか(1994)「家族における社会的態度の連関」
「うちでは普通」と「社会では普通」は、どちらが正しい?
さて、今度は、家庭と社会の話です。
例えば、ある家庭では、何かを決めるときに、家族みんなで相談するのが当たり前だったとします。
ところが、学校や職場では、
「そんなこと、自分で決めればいいのに」
と言われることがあります。
すると、
「え? 相談するって、おかしいことなの?」
と思うかもしれません。
反対に、自分で決めることが多かった人が、
「もっと周りに相談して!」
と言われることもあるでしょう。
さて、どちらが社会の普通なのでしょう。
……。
実は、社会の中にも、いろいろな集団があります。
学校によって違うこともあります。
職場によって違うこともあります。
地域によって違うこともあるでしょう。
そして、時代によっても変化します。
2026年、知念渉は、家庭教育と社会の関係について、複数の規範が互いに補い合う一方で、葛藤することもあると論じています。
例えば、多様な家庭への配慮を重視する考え方があります。
一方、誰もが家事などの「家庭の仕事」をできるようになるべきだという考え方もあります。
どちらも、一見すると望ましいことに思えるかもしれません。
でも、実際の家庭の状況によっては、それぞれの規範の間に緊張関係が生まれる場合があるんです。
つまり、
「社会では普通」という言葉だけでは、どの集団の、どんな基準について話しているのか分からないということです。
参考:知念渉(2026)「家庭教育は社会にどのように接続されるべきか」
「普通じゃない」は、必ずしも「悪い」という意味ではない
ここで、もう少し言葉を分けてみましょう。
ある人が、こう言いました。
「うちでは、誕生日のお祝いをしないんだ」
すると、別の人が驚きました。
「えっ!? 誕生日なのに?」
さて、ここで何が起きたのでしょう。
一人は、誕生日のお祝いをしない家庭で育ちました。
もう一人は、誕生日を毎年お祝いする家庭で育ちました。
そして、違う習慣に驚きました。
ここまでは、特に不思議なことではありません。
でも、ここから、
「誕生日を祝わないなんて、冷たい家族だね」
と決めつけたとしたら?
今度は、家庭の習慣から、家族関係についての評価が生まれています。
では、誕生日を祝わない理由を知っているのでしょうか。
もともと誕生日のお祝いをする習慣がなかったのかもしれません。
別の行事を大切にしているのかもしれません。
あるいは、家族の事情があるのかもしれません。
今の段階では、分かりません。
だから、自分の家庭と違うことと、その家庭に問題があることは、同じではないんです。
ただし、ここで大切なこともあります。
家庭ごとに普通が違うからといって、どんな行動も認めなければならないわけではありません。
人を傷つけたり、安全を損なったり、相手の権利を侵害したりする行動については、別に判断する必要があります。
「うちでは普通だった」
という言葉は、その行動がどうして生まれたのかを理解する手がかりにはなります。
でも、その行動を無条件に正当化する理由にはなりません。
習慣の違いと、行動の適切さは、別に考えられるんですね。
自分の普通と違うと、どうして嫌な気持ちになるの?
さて、ここから少し、人間の反応を考えてみましょう。
最初の夕飯の話です。
相手が先に食事を終えていました。
そのとき、
「なんで待ってくれなかったの?」
と思いました。
では、どうして嫌な気持ちになったのでしょう。
「うちでは、家族そろって食べるものだったから」
という説明はできます。
でも、もう少し考えてみると、いろいろなことがあるかもしれません。
例えば、一緒に食事をする時間が楽しみだったのかもしれません。
その時間に、今日あった出来事を話したかったのかもしれません。
家族がそろっていると、安心できたのかもしれません。
あるいは、
「私と一緒に過ごすことを、大切に思っていてほしい」
という願いがあったのかもしれません。
さて、ここで相手が先に食べてしまいました。
すると、どうでしょう。
単に、夕飯の時間がずれただけではなく、
「自分が大切にしている時間を、相手は大切にしていないのかもしれない」
と感じることがあるかもしれません。
さらに、
「私を大切にしていないのかもしれない」
という意味が加わったとしたら?
寂しさや怒りが生まれる場合があります。
夕飯を先に食べられたことが、愛情を疑う出来事に変わっているんです。
もちろん、誰もがそう考えるわけではありません。
でも、もしそんな反応が生まれたのなら、そこには何が関係しているのでしょう。
そとがわメソッドでは、何を見ていくの?
ここで、そとがわメソッドの視点から考えてみましょう。
例えば、次の出来事がありました。
相手が先に夕飯を食べていました。
あなたは、寂しくなりました。
そして、腹が立ちました。
さて、ここで何が起きていたのでしょう。
まず、相手が先に夕飯を食べたという出来事があります。
次に、
「家族なら、待ってくれるものだ」
という基準があったかもしれません。
さらに、
「待ってくれなかったのは、私と一緒に食べたくなかったから?」
という意味が加わったかもしれません。
そして、
「これからも、一緒に過ごす時間を大切にしてもらえないのかな」
という未来の予測が生まれたかもしれません。
その結果、寂しさや怒りが生まれたとします。
こうして一つずつ分けると、いろいろなことが見えてきます。
出来事と、そこに加わった意味は、同じではありません。
もちろん、寂しさが生まれた理由は、意味づけだけで説明できるとは限りません。
楽しみにしていた時間が実際になくなったことも関係するでしょう。
これまでの経験が関係しているかもしれません。
その場の状況もあるでしょう。
だからこそ、実際には何が起きていたのかを観察できます。
何を守ろうとして、その反応が必要になったの?
さて、ここでもう一つ問いを向けてみましょう。
夕飯を先に食べられて、怒りが生まれたとします。
では、なぜ、その怒りが必要になったのでしょう。
例えば、
「家族で過ごす時間を大切にしたい」
という気持ちがあったのかもしれません。
あるいは、
「自分が大切にされていると感じたい」
という願いがあったのかもしれません。
それが失われるように感じたために、怒りが生まれた可能性もあるでしょう。
また、
「このままでは、これからも自分の希望が無視されるかもしれない」
と予測したのかもしれません。
その場合、怒りは、何かを守るための反応として生まれているのかもしれません。
ただし、ここで、
「本当はこういう理由で怒ったんですね」
と、外から決めつけることはできません。
その人が何を経験し、どんな意味を持ち、何を予測していたのかは、実際に見ていく必要があります。
そとがわメソッドでは、そのように、反応が必要になった仕組みを観察します。
だから、
「こんなことで怒る私は、心が狭い」
と、さらに自分を否定する必要はありません。
なぜ、その反応が生まれたのかを知ることができるからです。
「相手の普通を理解する」と「自分が我慢する」は違う
さて、ここで大切なことがあります。
二人の家庭では、普通が違いました。
それが分かりました。
では、
「そうか。相手の家では普通だったんだから、私が我慢するしかないんだ」
という結論になるのでしょうか。
……そんなことはありませんよね。
例えば、あなたは一緒に夕飯を食べたいと思っています。
それは、自分にとって大切な希望です。
相手は、お腹がすいたら先に食べたいと思っています。
それも、相手の希望です。
では、どうすればよいのでしょう。
ここで、初めて二人の話し合いができます。
「私は、夕飯の時間に一緒に話したいんだ」
「そうだったんだ。私は、お腹がすいたら食べるものだと思ってた」
「じゃあ、休みの日は一緒に食べない?」
「いいね。仕事で遅くなる日は、先に食べてもいい?」
……。
最初からこういう話ができていたら、夕飯で険悪にならずに済んだかもしれませんね。w
もちろん、必ず簡単に解決できるわけではありません。
相手にも自分にも、譲れない事情があるかもしれません。
でも、少なくとも、
「先に食べる人は、私を大切にしていない」
と決めることと、
「私は、一緒に夕飯を食べる時間を大切にしたい」
と伝えることは、違います。
そして、相手の普通を知ることと、自分の普通を捨てることも、同じではありません。
「普通が違う」と分かったあとに、選べることがある
さて、ここまでの話を、もう一度考えてみましょう。
ある家庭では、誕生日に必ずお祝いをしていました。
別の家庭では、特別なことをしていませんでした。
その二人が一緒に暮らし始めました。
一人は、誕生日にはお祝いをしてもらえると思っていました。
でも、相手は何も準備していませんでした。
そこで、
「私の誕生日、忘れてるの?」
と思ったとします。
さて、ここで何ができるでしょう。
「誕生日を祝わないなんて、愛情がない!」
と決めることもできるかもしれません。
でも、それだけではありません。
「私は、誕生日にお祝いしてもらえると嬉しいんだ」
と伝えることもできます。
すると、相手は、
「そうなんだ。うちは誕生日に何もしなかったから、気づかなかった」
と言うかもしれません。
もちろん、実際に忘れていたのかもしれません。
どうだったのかは、聞かなければ分かりません。
でも、ここで初めて、相手がどう考えていたのかを知ることができます。
そして、今後どうしたいのかも、話し合えます。
自分の普通を正解にする必要も、相手の普通を正解にする必要もない。
ただ、二人の間ではどうしたいのかを考えることができます。
ここが、面白いところです。
「普通じゃない自分」が苦しくなることもある
さて、今度は少し立場を変えてみましょう。
これまでは、相手の普通が自分と違うときの話でした。
でも、自分が周りから、
「普通じゃないね」
と言われることもありますよね。
例えば、あなたは、何かを決める前に家族に相談することが多かったとします。
それが、これまでの自然なやり方でした。
ところが、ある日、友人に言われました。
「そんなこと、自分で決めればいいのに」
さて、どう感じますか。
「そういう考え方もあるんだね」
と思うかもしれません。
一方、
「私は、自分で何も決められない人間なのかな」
と思うかもしれません。
さらに、
「もっと自立しなきゃ」
「こんな自分じゃダメだ」
と考えることもあるでしょう。
さて、ここで何が起きているのでしょう。
最初は、
「これまで、家族に相談することが多かった」
という行動の話でした。
でも、いつの間にか、
「自分で何も決められない人間」
という人格の説明になっています。
……。
相談しただけなのに、人格の採点まで始まりました。w
もちろん、何かを自分で決める必要がある場面もあります。
でも、相談することと、その人の価値を一つにまとめる必要はありません。
ここにも、出来事と意味づけを分けて見ることができます。
自分の普通を変えたいと思ったら、どうすればいい?
さて、ここでもう一つ考えてみましょう。
これまでの家庭の習慣が、今の生活では合わなくなったとします。
例えば、以前は家族みんなで夕飯を食べていました。
でも、今はそれぞれ仕事や学校があり、帰宅時間が違います。
それでも、
「家族なんだから、必ず一緒に食べなければ!」
と思っていたら、どうでしょう。
毎日の予定を合わせることが、とても難しくなるかもしれません。
では、どうすればよいのでしょう。
今までの習慣を、そのまま続けることもできます。
できる範囲で続けることもできます。
あるいは、別のやり方に変えることもできます。
ここで、
「普通を変えなきゃ!」
と、無理に頑張る必要はありません。
まず、
「なぜ、それが自分にとって大切だったのか」
を知ることができます。
家族と話す時間が大切だったのでしょうか。
一緒に過ごすことで、安心できたのでしょうか。
家族がそろっていることに、特別な意味があったのでしょうか。
それが分かれば、
「夕飯は別々でも、休日に一緒に食事をする」
という選択もできるかもしれません。
大切にしたかったものが分かれば、そのための方法は、一つとは限らないんですね。
「うちでは普通だった」は、誰のせいでもないの?
さて、ここで、もう少し慎重に考えてみましょう。
「家庭によって普通が違う」
という話をしてきました。
でも、それを聞いて、
「じゃあ、家族の中で何があっても、誰も悪くないってこと?」
と思う人もいるかもしれません。
……そこは、少し違います。
例えば、ある家庭で、
「家族の言うことは、必ず聞くものだ」
という習慣があったとします。
でも、その習慣によって、誰かが不合理な負担を押しつけられたり、傷つけられたりしているとしたら?
その行動が適切かどうかは、別に考える必要があります。
「うちでは、そうだった」
ということは、背景の説明にはなります。
でも、それだけで、相手を傷つける行動が正当化されるわけではありません。
ここは、分けて考えられます。
なぜ、その行動が必要だったのかを理解すること。
その行動を、今後も続けてよいかどうかを判断すること。
この二つは、同じではありません。
そとがわメソッドでも、過失や責任と、人格の否定は別のものとして考えます。
何かを改善する必要があるときには、改善できます。
誰かの行動について、適切な対応を考えることもできます。
でも、そのことと、
「だから、あの人は人間としてダメだ」
と決めることは、別の話です。
自分の家庭の普通は、本当に自分で選んだもの?
さて、ここで、もう一つ面白い質問です。
あなたが、今、普通だと思っていること。
それは、いつから普通になったのでしょう。
例えば、
「家族のことは、家族で決めるものだ」
「親の言うことは、聞くものだ」
「家族でも、プライバシーを大切にするものだ」
「人に迷惑をかけてはいけない」
「家事は、気づいた人がするものだ」
そんな考え方があるとします。
さて、これらは、いつから自分の考えになったのでしょう。
誰かに教わったのでしょうか。
家族の行動を見て、覚えたのでしょうか。
そうすることで、安心できたことがあったのでしょうか。
反対に、そうしないことで、困った経験があったのでしょうか。
そして、今は、それが自分にとって自然なものになっている。
そんなことがあるかもしれません。
ここで、面白いことがあります。
私たちは、自分の考えを、自分で考えて決めたものだと感じることがあります。
もちろん、実際に自分で考えて選んだものもあるでしょう。
でも、その考えの材料には、これまでの経験が含まれているかもしれません。
そして、あまりにも自然になっていると、その基準を使っていること自体に気づきにくくなるんです。
「私が普通だと思っていること」は、どこで普通になったのでしょう。
そんなことを考えてみると、自分の中にも、まだ知らないものがたくさんありそうですね。
もしかして、自分の家族も「普通」を作り続けている?
さて、ここで、もう一つ考えてみましょう。
家庭の普通は、過去から受け継がれるものだけなのでしょうか。
例えば、二人で新しく暮らし始めたとします。
一人は、夕飯はみんなで食べるのが普通でした。
もう一人は、お腹がすいた人から食べるのが普通でした。
最初は、すれ違いました。
でも、そのあと話し合いました。
そして、
「平日はそれぞれ好きな時間に食べる」
「休みの日は、できるだけ一緒に食べる」
というやり方を選んだとします。
さて、何が起きたのでしょう。
二人のどちらかの家庭の普通を、そのまま採用したわけではありません。
二人で、新しい普通を作ったんです。
それが毎日続けば、やがて特に意識しなくなるかもしれません。
数年後、誰かに、
「夕飯って、どうしてる?」
と聞かれたら、
「うちは平日バラバラで、休みの日だけ一緒だよ」
と答えるかもしれません。
それが、その家庭の普通になっています。
……。
最初は大事件だった夕飯問題が、いつの間にか日常の習慣になりました。w
こうして考えると、普通というものは、ただ昔から決まっているものではありません。
人々の暮らしの中で作られ、続けられ、変わることもあるんですね。
家庭の「普通」を知ると、人間観察が面白くなる
さて、ここまで、いろいろな家庭の違いを見てきました。
夕飯。
誕生日。
親への連絡。
悩み事を相談するかどうか。
家事のやり方。
言葉づかい。
落ち込んでいる人への接し方。
……。
何だか、いろいろありましたね。
でも、考えてみると、私たちは普段、こうしたことを一つひとつ意識しているわけではありません。
それぞれの家庭で、自然に生活しています。
そして、別の家庭のやり方に出会って、
「えっ!?」
と思うことがあります。
そのとき、
「なんで、そんなことするの?」
という疑問が生まれるかもしれません。
さて、そこで、
「普通じゃない!」
と決めることもできます。
でも、
「その人の家では、それが普通だったのかな?」
と考えることもできます。
さらに、
「そのやり方には、その人にとってどんな意味があるんだろう?」
と考えることもできます。
そうすると、同じ行動を見ても、もっといろいろなことが見えてくるかもしれません。
違いを見つけることが、誰かを否定するためだけではなく、知るための入口にもなる。
これって、面白いと思いませんか。
最初の夕飯の話に戻ってみましょう
さて、最後にもう一度。
仕事から帰ってきました。
相手は、すでに夕飯を食べ終わっていました。
「えっ、もう食べたの?」
「うん。お腹すいたから」
最初にこの会話を読んだとき、どう感じましたか。
「なんで待ってくれないの?」
と思ったでしょうか。
それとも、
「お腹すいたなら、先に食べるでしょ」
と思ったでしょうか。
あるいは、
「一緒に食べたいなら、先に言っておけばよかったのに」
と思ったかもしれません。
……。
いろいろな答えがありますよね。
でも、その答えは、何を基準に生まれたのでしょう。
自分の家庭での経験でしょうか。
今まで一緒に暮らした人との関係でしょうか。
あるいは、家族とはこういうものだという考え方でしょうか。
ここまで読んだあとなら、最初とは違うことが気になるかもしれません。
例えば、
「二人にとって、夕飯って何だったんだろう?」
という疑問です。
一人にとっては、お腹を満たす時間。
もう一人にとっては、家族が一緒に過ごす時間。
もし、そうだったとしたら?
最初のすれ違いも、少し違って見えませんか。
同じ夕飯の話をしていたはずなのに、違うものを大切にしていたのかもしれない。
そんなことが分かると、ただの口げんかのように見えていた場面にも、新しい疑問が生まれます。
よくある質問
Q. 家庭によって「普通」が違うのはなぜですか?
家庭ごとに、生活習慣、価値観、家族構成、仕事、文化的な背景、これまでの歴史などが異なるためです。
日常的に繰り返される行動や、言葉にされないルールが、その家庭では自然なものとして身につくことがあります。
Q. 家庭の当たり前は、子どもの考え方に影響しますか?
影響する場合があります。
家庭は、子どもが日常的な習慣や価値観、人との関わり方を学ぶ環境の一つです。
ただし、家庭だけで考え方がすべて決まるわけではありません。
学校、友人、地域、本人の経験なども関係します。
Q. 自分の家庭と違う習慣に違和感があるのは、おかしいですか?
違和感が生まれること自体は、不思議なことではありません。
自分がこれまで自然だと思っていたやり方と異なるため、予想外だと感じることがあります。
そのとき、何を基準に判断していたのか、どんな意味が加わっていたのかを観察することもできます。
Q. 家庭ごとに普通が違うなら、正しいことは何もないのですか?
そういう意味ではありません。
日常の好みや習慣の違いと、安全や法律、人の権利に関わる問題は、分けて考える必要があります。
「うちでは普通だった」ということは、行動の背景を理解する手がかりにはなりますが、誰かを傷つける行動を無条件に認める理由にはなりません。
Q. そとがわメソッドでは、家庭で身につけた価値観を変えるのですか?
価値観を無理に変えることを目的にはしていません。
自分の中で、どのような基準や意味が働き、どんな予測や反応が生まれているのかを観察します。
その仕組みを知ることで、自分や相手を否定する以外の行動を選ぶこともできるようになります。
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参考文献・資料
- American Psychological Association(2009、2023年最終確認)“Parents and caregivers are essential to children’s healthy development.” APA公式解説
- Fiese, B. H., et al.(2002)“A review of 50 years of research on naturally occurring family routines and rituals: Cause for celebration?” Journal of Family Psychology, 16(4), 381–390. PubMed
- Spagnola, M., & Fiese, B. H.(2007)“Family Routines and Rituals: A Context for Development in the Lives of Young Children.” Infants & Young Children, 20(4), 284–299. 原著論文
- Wittenberg-Lyles, E., et al.(2012)“The Impact of Family Communication Patterns on Hospice Family Caregivers: A New Typology.” Journal of Hospice & Palliative Nursing, 14(1), 25–33. 論文全文
- 吉川徹・尾嶋史章・直井優(1994)「家族における社会的態度の連関―父親・母親・子どもの3者間相関の測定と解釈―」『理論と方法』9巻2号、187–202頁。J-STAGE
- 知念渉(2026)「家庭教育は社会にどのように接続されるべきか―二つの報告において前提とされている規範に着目して―」『家族研究年報』51巻、37–45頁。J-STAGE
※家族の習慣や儀礼に関する研究は、家庭生活と子どもの発達、家族関係などの関連を扱っています。特定の家庭の習慣が、必ず特定の性格や結果を生むと証明するものではありません。
まとめ|その「普通」は、どこで普通になったのだろう?
「えっ、うちでは普通だったのに!」
そんなふうに感じることがあります。
でも、その普通は、いつから普通になったのでしょう。
家族が毎日繰り返していたからでしょうか。
誰かから教わったからでしょうか。
そのやり方で、安心できたことがあったからでしょうか。
あるいは、そうしないことで、困った経験があったのでしょうか。
そして、別の家庭で育った人には、また別の普通があるかもしれません。
だから、同じ出来事に出会っても、違う意味を感じることがあります。
夕飯を先に食べる。
その一つの出来事から、
「お腹がすいたんだな」
と思う人もいれば、
「一緒に食べたかったのに」
と思う人もいるでしょう。
さらに、
「私を大切にしていないのかな」
という意味が加わる場合もあります。
さて、何が起きていたのでしょう。
そこを、一つずつ分けて見ることができます。
自分の普通を否定する必要もありません。
相手の普通を否定する必要もありません。
ただ、違いによって困ることがあるなら、お互いに何を大切にしているのかを知り、どうしたいかを考えることができます。
「普通はこうでしょ!」と思ったとき、その普通は、どこで身につけたものなのでしょう。
そんなことを考えてみると、普段の何気ない会話や家族とのやりとりの中にも、面白い発見がありそうですね。
人間の認識と反応の仕組みを、もっと知りたい方へ
私たちは普段、目の前の出来事を、当たり前のように理解しています。
でも、その理解には、これまでの経験や、自分の中で自然になっている基準が関係している場合があります。
誰かが、先に夕飯を食べた。
その出来事を見て、
「どうして待ってくれなかったの?」
と思った。
さらに、
「私のことを大切にしていないのかな」
という意味が加わった。
そして、寂しさや怒りが生まれた。
そんなとき、自分の中では、何が起きていたのでしょう。
そとがわメソッドでは、出来事と色づけ、一次反応や二次反応、その後の行動などを分けて観察します。
自分の感じ方を否定するためではありません。
誰かの普通を、正しいものに決めるためでもありません。
なぜ、自分にはその意味が生まれたのか。なぜ、その反応が必要になっていたのか。
その仕組みを知るためです。
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悩みを抱えている方だけでなく、人間そのものに興味がある方にも、楽しんでいただける内容です。
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