「わかるよ」と言われたのに、なぜモヤッとすることがあるのか
悩みを話したとき、「わかるよ」と言ってもらえてホッとした。そんな経験はないでしょうか。
ところが、同じ「わかるよ」なのに、別の日には「いや、まだ何も話してないけど?」と思うこともあります。言葉は同じなのに、受け取り方はずいぶん違います。
相手が本当に理解してくれたかどうかは、こちらからは直接見ることができません。それなのに、私たちは「わかってくれた」「わかってくれていない」と、かなりはっきり感じることがあります。
その感覚は、いったい何を手がかりに作られているのでしょう。
同じ返事でも、前に何があったかで意味が変わる
例えば、仕事で失敗して落ち込んでいるとき、友人に話をしたとします。
「私、今日ちょっと失敗しちゃってさ」 ……と言い終わらないうちに、相手が「わかるわかる! そういうときは気にしないのが一番!」と返してきました。
元気づけようとしてくれたのかもしれません。でも、こちらはまだ「何が起きたのか」すら話していません。そこで「わかる」と言われると、少し置いていかれたように感じることがあります。
では、今度は相手がこんなふうに答えたらどうでしょう。
「それは気になるね。何があったの?」
まだ理解しているとは言っていません。むしろ、知らないから聞いています。それなのに、こちらのほうが「聞いてもらえている」と感じるかもしれません。
面白いですね。「理解している」と宣言することと、「理解しようとしている」と感じられることは、別の出来事なのです。
「同じ経験をした人」のほうが、必ずわかってくれる?
似た経験をした人に話すと、説明しなくても通じるような感覚になることがあります。例えば、初めて一人暮らしをしたときの心細さ。経験者同士なら、「あの静けさね」と言うだけで話が弾むかもしれません。
でも、同じ経験をしていても、感じ方が同じとは限りません。一人暮らしを「自由で最高だった」と感じた人もいれば、「夜が怖かった」と感じた人もいるでしょう。
経験が似ていることは手がかりになります。一方で、「私もそうだったから、あなたもこう感じたはず」となると、相手の話を聞く前に結論ができてしまうこともあります。
反対に、経験したことがない人が「私にはまだわからないところがあるけど、聞いてもいい?」と言ってくれたほうが、話しやすい場合もあるでしょう。
共通の経験が助けになるときもあれば、共通の経験から生まれた予測がすれ違いを作るときもある。経験の一致と、今この人の認識の一致は同じではないんですね。
同じ会話でも受け取る前提が違うときのすれ違いは、話がかみ合わないのはなぜ?「前提」が違うと結論まで変わる理由でも扱っています。ここでは、いまの出来事の受け取り方に注目してみましょう。
「わかってもらえた」と判断しているのは、どこだろう
ここで、出来事と受け取り方を少し分けてみましょう。
相手がうなずいた。途中で話を遮らなかった。こちらが使った言葉を言い直してくれた。質問をしてくれた。これらは、ある程度外から確認できる行動です。
一方、「私のことを大切にしてくれている」「この人は本当の私をわかってくれる」という感覚は、その行動を見た自分の中で生まれます。
例えば、うなずいている人を見て「真剣に聞いてくれている」と感じる場合もあれば、「早く話を終わらせたいのかな」と感じる場合もあります。相手が何を考えているか、うなずきだけでは決まりません。
もちろん、こちらが勝手に意味をつけているだけで、相手の態度には何の影響力もない、という話ではありません。相手の言い方、間の取り方、その人とのこれまでの関係、実際に尊重されてきた経験なども関わります。
ただ、相手がしたことと、それを見て自分の中に生まれた「理解された」という感覚は、分けて観察できる。そこがこの話の面白いところです。
「わかってほしい」が強くなるとき、何が必要になっている?
もう一つ、不思議なことがあります。普段なら意見が違っても平気なのに、ある人にだけは「どうしてわかってくれないの?」と強く感じることです。
例えば、映画の感想なら「私は面白かった」「私はそうでもなかった」で終わるのに、自分の大切な決断を家族に話したときには、違う意見を言われただけで悲しくなる。
映画の話と人生の決断では、話している内容も、相手との関係も違います。もしかすると、後者には「理解してもらえなければ、応援してもらえない」「認めてもらえなければ、自分の選択が間違いになる」といった意味がついているのかもしれません。
そう感じたとき、「わかってもらうこと」が単なる希望ではなく、どうしても必要なことになっている場合があります。
だからといって、理解を求める気持ちをなくす必要があるわけではありません。誰かに話を聞いてほしいことも、協力や合意が必要な場面もあります。
ただ、相手の同意がなければ自分の考えが成立しないように感じられるとき、「理解してほしい」と「同意してほしい」と「許可してほしい」が重なっていないかを見てみると、違いが見えてくるかもしれません。
理解されなかった、と感じたときにも起きていること
「わかってもらえなかった」と感じたあと、相手を避けたくなったり、もっと説明したくなったり、逆に何も話したくなくなったりすることがあります。
最初に起きた落胆に、「こんなことで傷つく私は面倒くさいのかな」という評価が重なることもあるでしょう。そうなると、相手の反応だけでなく、自分の反応にも反応している状態になります。
そのとき考えたいのは、傷ついた自分を直すことより、どんな条件のときにその反応が生まれたのか、ということです。
ただし、話を遮る、約束を破る、個人情報を勝手に広めるといった具体的な行為があれば、その行為や影響について確認したり、境界線を設けたりすることは別の話です。「認識の違い」で実際の問題まで消えるわけではありません。
理解していることと、理解されたと感じること
考えてみると、「わかった」という言葉には、ずいぶんいろいろな意味があります。話の内容が理解できた。気持ちが想像できた。同じ意見だと思った。相手の選択を尊重した。
この四つは、いつも一緒に起きるわけではありません。意見には賛成できなくても、なぜそう考えたのかは理解できることがあります。気持ちが想像できなくても、相手の選択を尊重することはできます。
そして、「わかってもらえた」という感覚も、相手の言葉だけで決まるわけではなさそうです。話す前に何を予測していたか、何を大切にしていたか、その相手との間で何が起きてきたか。条件によって、同じ返事が違うものに見えてくる。
もし次に誰かの「わかるよ」にモヤッとしたら、その言葉が正しいか間違っているかを急いで決めなくてもいいのかもしれません。何があれば「わかってもらえた」と感じるのか。何が足りないと感じたのか。そんなところから、人間の認識を眺めてみるのも面白そうです。
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相手の反応を何度も想像してしまう条件は、人の気持ちを考えすぎるのはなぜ?へ。
相手の反応に自分の判断を預けてしまう感覚については、相手の反応を自分の対応で変えようとして、疲れていませんか?も参考になります。
よくある質問
反応の仕組みを、別の場面からも見てみる
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