世界が始まる前、神様はどこにいたのでしょうか?
そんなことを聞かれても、なかなか想像できませんよね。
私たちは、この世界が存在していることを当たり前に感じています。
空があって、海があって、大地がある。
でも、世界が始まる前はどうなっていたのでしょう。
そもそも、世界は誰かが造ったのでしょうか。それとも、何かが生まれ、少しずつ形になっていったのでしょうか。
人間は昔から、この不思議な問いについて、さまざまな物語を伝えてきました。
例えば、旧約聖書の『創世記』では、神が天と地を創造するところから物語が始まります。
一方、日本の『古事記』では、天地が始まるとき、神々が次々と「成る(現れる)」ところから始まるのです。
この違い、ちょっと面白くありませんか?
今回は、『古事記』の世界の始まりをたどりながら、『創世記』の天地創造と読み比べてみましょう。
『古事記』の始まりは「天地初発」
『古事記』は、712年に編纂された日本の古い歴史書です。
上巻では、天地の始まりから神々の誕生、国生みなどの神話が語られています。
その冒頭に登場する言葉が、「天地初発之時(あめつちはじめておこりしとき)」。
天地の活動が始まったとき、という意味で読まれることがあります。
ここで少し気になるのが、「天地が始まった」とは書かれていても、その前がどんな状態だったのかは詳しく説明されていないことです。
「完全に何もない空間がありました」と書いてあるわけではありません。
「まず誰かが天地を造りました」という説明から始まるわけでもありません。
物語は、天地が始まる場面から動き出します。
そして、そこで最初の神が登場します。
最初に現れた神様は誰?
『古事記』で最初に登場する神は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)です。
続いて、二柱の神が現れます。
- 高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)
- 神産巣日神(カミムスヒノカミ)
この三柱は、後に造化三神(ぞうかさんしん)と呼ばれる神々です。
ここで面白いのは、登場の仕方です。
人間のような姿をした神様が、どこかから歩いてきたのでしょうか?
何かを材料にして造られたのでしょうか?
『古事記』の冒頭では、そうした場面は描かれません。
三柱の神々は、高天原(たかまのはら)に「成る」と記されています。
そして、いずれも独神(ひとりがみ)となり、身を隠したと語られています。
独神とは、後に登場する男女一対の神々とは異なり、単独で現れる神のことです。
つまり、最初の神々は、イザナギやイザナミのように、男女の対となって活動する神々とは異なる形で描かれているのです。
ただし、「身を隠した」は、死んだり消滅したりしたという意味に決まっているわけではありません。
姿を現さなくなった、あるいは目に見える活動から退いたなど、研究者によって解釈が分かれています。
では、そのあと世界はどうなっていくのでしょうか。
大地は、クラゲのように漂っていた?
最初の三柱に続いて、『古事記』はまだ定まらない国土の様子を描いています。
大地は、浮かぶ脂のようで、クラゲのように漂っていたと語られます。
今のように、山や島の形がしっかり決まっている世界ではありません。
形の定まらないものが、ふわふわと漂っている。
そんな光景を想像すると、不思議な感じがします。
しかも、そこから現れる神様について、さらに面白い表現が出てきます。
葦(あし)の芽が伸び出すように、神が現れる。
ここで登場するのが、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)です。
葦は、水辺などに生える植物です。
泥の中から若い芽が伸びてくる様子を、思い浮かべてみてください。
まだ形の定まらない世界から、生命が芽吹くように何かが現れてくる。
そんな情景を連想させる描写です。
この神に続いて、天之常立神(アメノトコタチノカミ)が現れます。
この二柱も独神となり、身を隠したと語られています。
最初の三柱と、続く二柱。
合わせて五柱は、別天神(ことあまつかみ)と呼ばれます。
最初の神々の登場を読んでいると、誰かが世界を設計して造っている場面というより、世界が動き始め、その中に神々が次々と現れてくる場面が印象に残ります。
神々は、やがて男女の対になっていく
ここから、物語は少しずつ変わっていきます。
別天神に続いて、神世七代(かみよななよ)と呼ばれる神々が登場します。
初めは単独の神々が現れ、そのあと男女の対となる神々が語られるようになります。
そして、第七代に登場するのが、よく知られた二柱です。
イザナギとイザナミ。
この二柱になると、物語はさらに具体的になります。
神々が言葉を交わし、何かを行い、その結果として世界に新しいものが生まれていきます。
最初の「神々が成る」という短い描写から、だんだん私たちにも想像しやすい物語へ進んでいくのです。
もちろん、これは「最初の神々には身体がなかった」と断定できるという意味ではありません。
ただ、『古事記』の物語の中で、独神から男女一対の神々へと展開していくことには、大きな特徴があります。
イザナギとイザナミは、どうやって国を生んだの?
ここから先は、かなり具体的な場面になります。
天上の神々は、イザナギとイザナミに、漂っている国土を整え、固めるよう命じます。
そして、天沼矛(あめのぬぼこ)という矛を授けます。
二柱は、天浮橋(あめのうきはし)に立ちました。
そこから矛を海へ差し下ろし、ぐるぐるとかき混ぜます。
そして、矛を引き上げると、その先から海水が滴り落ちました。
その滴が積み重なって、一つの島になります。
それが、オノゴロ島です。
どうでしょう。
最初の神々が現れる場面とは、ずいぶん雰囲気が変わりましたよね。
神々が道具を使って海をかき混ぜる。
そこから島ができる。
さらに二柱は結ばれ、島々を生み、さまざまな神々を生んでいきます。
『古事記』では、こうして国土が形づくられていく過程も語られているのです。
つまり、『古事記』は「神々が自然に現れるだけで、誰も世界を造らない」という話ではありません。
神々が現れることと、神々が国土を整え、生み出していくことの両方が描かれています。
ここを知ると、『古事記』の世界の始まりが、単純な一場面ではなく、いくつもの段階を持つ物語であることが分かります。
一方、『創世記』では神が天地を創造する
では、旧約聖書の『創世記』では、世界の始まりはどのように語られているのでしょうか。
『創世記』第1章は、神が天と地を創造したという言葉から始まります。
ここでは、世界が形づくられていく過程で、神が語り、その言葉によって出来事が起こる様子が描かれています。
有名なのが、光の誕生です。
神が「光あれ」と言うと、光が生まれる。
その後、光と闇が分けられ、天と海、陸地、植物、空の光るもの、生き物へと物語が進みます。
そして人間が造られます。
六日の創造のあと、七日目には神がその仕事を休む、という構成です。
ここで注目したいのは、物語の最初から世界を造る主体としての神が登場することです。
『古事記』では、天地の始まりに神々が次々と現れる。
『創世記』では、神が世界を形づくっていく。
冒頭に何を置いて物語が始まるかという点で、印象が違います。
『創世記』にも、土から人が造られる物語がある
『創世記』の話は、神が言葉を発する場面だけではありません。
第2章に進むと、人間についての物語が、また違った角度から描かれます。
そこでは、神が土の塵から人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れるという場面が語られています。
第1章が、天地や生き物が造られていく様子を大きく描いているのに対し、第2章では、人間と大地、園での暮らしに焦点が当たります。
つまり、『創世記』の中にも、世界の始まりを描く複数の視点があるのです。
同じ聖書の中でも、一つの描き方だけで終わっていない。
ここも興味深いところです。
『古事記』と『創世記』を比べるときも、それぞれの冒頭の一文だけを取り出すのではなく、物語がそのあとどう展開するのかを見ていくと、違いがより分かりやすくなります。
人間は、世界をどのように受け取っているのでしょう?
神話の読み比べからも、一つの出来事や対象を、どんな前提や関係の中で捉えるかという問いが生まれます。
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『古事記』と『創世記』の違いを比べてみよう
ここまでの内容を、物語の始まり方に注目して整理してみます。
| 比べるところ | 『古事記』 | 『創世記』 |
|---|---|---|
| 冒頭の場面 | 天地の始まりに神々が現れる | 神が天地を創造する |
| 最初の神々の描写 | 独神として成り、身を隠す | 世界を造る神が初めから登場する |
| 世界の変化 | 神々の出現、国土の生成、国生みへ進む | 神の言葉や働きによって天地と生き物が造られる |
| 人間に近い場面 | イザナギとイザナミが道具を使い、島々を生む | 神が土から人を形づくる場面もある |
| 特徴的な表現 | 「成る」「生む」「整え固める」 | 「創造する」「言葉によって生じる」「形づくる」 |
こうして並べると、違いが見えやすくなります。
ただし、二つを「自然に生まれる世界」と「誰かが造る世界」に完全に分けられるわけではありません。
『古事記』にも、神々が命じ、働きかけて国土を形づくる場面があります。
『創世記』にも、混沌や水、土などが描かれています。
また、「無からの創造」という考え方は、聖書を理解するうえで重要な神学的テーマですが、『創世記』の冒頭だけから、その意味や解釈を一つに決められるわけではありません。
だからこそ、それぞれの物語のどの場面を比べているのかが大切になります。
神様は、最初から人間の姿をしていたのだろうか?
『古事記』の最初に登場する神々を思い出してみてください。
天之御中主神。
高御産巣日神。
神産巣日神。
そのあとに、葦の芽が伸び出すように現れる神。
ここでは、神々がどんな顔をして、どんな服を着ていたのか、といった具体的な姿は詳しく描かれていません。
そして、独神が現れて身を隠すという短い描写が続きます。
ところが、イザナギとイザナミの物語になると、神々は言葉を交わし、矛を使い、島を生みます。
何をしているのかが、目に浮かぶようになります。
最初は姿や行動がつかみにくかった神々の物語が、だんだん具体的な行為の物語になっていく。
この変化も、『古事記』を読んでいて面白いところです。
世界の始まりという、誰も実際には見たことのない場面。
それを、人間はどんな言葉やイメージで伝えようとしてきたのでしょうか。
どうして世界の始まりの物語は違うの?
ここまで読むと、こんな疑問も生まれるかもしれません。
「どうして、地域や文化によって世界の始まりの物語が違うんだろう?」
『古事記』は、日本に伝わる神話や系譜などをまとめた歴史書です。
一方、『創世記』は、古代イスラエルに関わる宗教的伝統の中で伝えられてきた、聖書の最初の書物です。
それぞれ、成立してきた歴史も、伝えられてきた文化も違います。
そして、物語の中で大切に語られることも、同じとは限りません。
例えば、『古事記』では、神々の系譜や国生みが、そのあとの神話や歴史へつながっていきます。
『創世記』では、天地創造から人間の物語へ進み、さらに人々の系譜や、イスラエルの祖先たちの物語へ続きます。
世界の始まりは、どちらの物語でも、その先に続く人間や社会の物語と結びついているのです。
単に「宇宙はどうできたか」を説明して終わるものではありません。
世界の始まりをどう語るかが、その世界の中で生きる人間の物語にもつながっている。
そう考えると、最初の数行だけでも、読み比べてみる価値があります。
世界の始まりを、私たちはどう理解しているのだろう?
ここから、そとがわメソッドの視点でも考えてみます。
例えば、誰かが「神様が世界を造った」と言ったとします。
その言葉を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
世界を造る神様の姿。
光や海が生まれる場面。
あるいは、子どもの頃に聞いた神話や物語。
人によって、思い浮かべるものは違うかもしれません。
今度は「世界の始まりに神々が現れた」と聞いたらどうでしょう。
最初の神はどこから来たのだろう。
その前は何があったのだろう。
そんな疑問が生まれるかもしれません。
面白いのは、私たちは、聞いた言葉から何かを理解しようとするとき、すでに自分の知っているものを手がかりにしているということです。
「神」という言葉を聞いたときのイメージも、「世界が始まる」という言葉を聞いたときのイメージも、その人がこれまで何を知り、どんな話に触れてきたかによって異なる場合があります。
そこに気づくと、同じ言葉を使っていても、何を思い浮かべているのかは、必ずしも同じではないことが分かります。
『古事記』と『創世記』を比べる面白さは、どちらか一つの答えを選ぶことだけにあるわけではありません。
自分が当たり前に思い浮かべていた世界の始まりにも、別の語り方がある。
その発見そのものが、知的探究の面白さなのかもしれません。
参考文献・資料
- 『古事記』上巻「天地初発」。國學院大學『古事記ビューアー』本文・現代語訳・注釈
- 『古事記』上巻「神世七代」。國學院大學『古事記ビューアー』
- 『古事記』上巻「国土の修理固成」。國學院大學『古事記ビューアー』
- 國學院大學「宇摩志阿斯訶備比古遅神」。神名データベース
- 武田秀章(2022)「失敗も成功も―イザナキ、イザナミの国生み、神生み」。國學院大學
- 『聖書』旧約聖書「創世記」第1・2章。日本聖書協会「聖書本文検索」
- BioLogos「What is the Relationship Between the Creation Accounts in Genesis 1 and 2?」。創世記第1・2章の文学的な違いについての解説
よくある質問
Q. 『古事記』で最初に登場する神様は誰ですか?
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)です。
そのあとに高御産巣日神、神産巣日神が登場します。この三柱は造化三神と呼ばれています。
Q. 『古事記』では、神様は何もないところから生まれたのですか?
『古事記』の冒頭では「天地初発之時」と記され、高天原に神々が「成る」と語られています。
ただし、その前が完全な無だったと明確に説明しているわけではありません。
Q. 『古事記』の神様は、最初から人間のような姿だったのですか?
最初に登場する神々の具体的な姿は、詳しく描かれていません。
独神となり、身を隠したと語られています。その後、男女一対の神々が登場し、イザナギとイザナミによる国生みへと進んでいきます。
Q. 『創世記』では、世界はどうやって造られたのですか?
第1章では、神が天地を創造し、言葉によって光や世界の秩序が形づくられていきます。
第2章には、神が土から人を形づくる場面も描かれています。
Q. 『古事記』と『創世記』は、どちらも天地創造の物語ですか?
どちらにも世界の始まりや人間につながる物語があります。
ただし、『古事記』は神々が現れ、国土が形成されていく過程を描き、『創世記』は神が天地を創造するところから始まるなど、物語の構成には違いがあります。
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まとめ|神が世界を造る物語、神々が現れる物語
『古事記』は、天地の始まりに神々が現れるところから始まります。
最初の三柱の神々。
そのあと、葦の芽が伸び出すように現れる神。
さらに男女一対の神々が登場し、イザナギとイザナミの国生みへと続きます。
一方、『創世記』では、神が天と地を創造し、光や陸地、生き物、人間へと物語が進んでいきます。
どちらも、世界の始まりを語っています。
それなのに、物語の始まり方は違います。
この違いを知ると、こんな問いが生まれます。
人間は、自分が生まれるずっと前の世界を、どのように思い描いてきたのでしょうか?
そして私たちは、その物語を読むとき、どんな世界を思い浮かべているのでしょう。
普段は当たり前だと思っている理解にも、まだ知らない別の見方があるのかもしれません。
そとがわメソッドでは、こうした身近な疑問やさまざまな学問・文化を入口に、人間の認識や反応の仕組みを観察しています。

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