観察点とは

観察点とは

そとがわメソッドでは、

「どこから、何を見ているのか」

という位置を、

観察点と呼んでいます。

たとえば、

仕事でミスをした。

その瞬間、

「私はダメだ」

と思ったとします。

そのとき、

「私はダメ」

という考えの中にいると、

その考えを通して、

出来事を見ます。

ミスした。

↓

やっぱり私はダメだ。

↓

また失敗するかもしれない。

↓

周りにもそう思われるかもしれない。

というように、

「私はダメ」が、

世界を見る前提になります。

この状態では、

「私はダメ」と考えている

というより、

「私はダメなのだ」

と感じています。

そとがわメソッドでは、

こうして、

自分の中で起きている思考や反応と、

ほとんど一つになっている状態を、

同一化している

と見ます。


同一化しているときは、「考えていること」が事実に見える

たとえば、

相手から、

まだ返信が来ていない。

そのとき、

「嫌われた」

と思ったとします。

同一化していると、

「嫌われた」は、

自分の中で起きた解釈ではなく、

実際に起きていること

のように見えます。

すると、

返信が遅い。

いつもより文章が短かった。

この前、

少し表情が硬かった。

そんなものまで、

「やっぱり嫌われた」

という証拠に見えてくることがあります。

このとき、

自分の中では、

嫌われたと思っている私

と、

その思考を見ている私

が、

ほとんど分かれていません。

「嫌われた」

という思考の中から、

そのまま世界を見ています。


「見る側」に回ると、それまで自分だったものが見える

そこから、

ふと、

「私、

今『嫌われた』って思ってるな」

と気づいたとします。

すると、

それまで、

世界を見る前提だった、

「嫌われた」

という思考そのものが、

今度は、

見えるもの

になります。

ここが、

大きな違いです。

同一化しているときは、

「嫌われた」から世界を見る。

観察しているときは、

「嫌われたと思っている自分」を見る。

同じ思考があっても、

位置が違います。

「私はダメ」

の中にいるときは、

「私はダメ」が、

自分そのものに見える。

そこから少し位置が変わると、

「今、

自分をダメだと判断している」

と見える。

それまで、

自分だったものが、

観察する対象になります。

そとがわメソッドでは、

この、

見る位置の移動

を、

観察点が移る、

と表現します。


観察することは、思考を打ち消すことではない

ここでしているのは、

「私はダメ」

と思ったあとに、

「いや、

私はダメじゃない」

と考え直すことではありません。

「嫌われた」

と思ったあとに、

「きっと忙しいだけ」

と、

別の意味をつけることでもありません。

見るのは、

今、自分はこう判断しているんだな

ということです。

「私はダメ」

を、

「私はダメじゃない」

に変えるのではなく、

「私はダメ」

という判断そのものを、

見えるものにする。

それが、

そとがわメソッドでいう、

観察です。


反応が同じでも、反応との距離は変わる

観察点が移ったからといって、

反応そのものが、

すぐに変わるとは限りません。

不安は、

そのままあるかもしれません。

胸のざわつきも、

身体の緊張も、

怖さも、

そのままかもしれません。

でも、

不安の中にいる状態

と、

「今、不安がある」と気づいている状態

では、

不安との距離が違います。

これは、

特別なことではありません。

私たちは、

すでに似たことを、

日常の中で経験しています。

たとえば、

悲しくて、

大泣きしている最中に、

ふと、

「私、なんでこんなに大泣きしてるんだろう」

と気づくことがあります。

その瞬間、

悲しみが消えたわけではありません。

涙も出ています。

苦しさもあります。

感情も、

まだ強く残っています。

でも、

それまで、

ただ悲しさの中にいたところから、

「今、自分はものすごく悲しくて、泣いている」

と、

その状態を見られる位置が生まれています。

反応そのものは、

まだある。

でも、

反応との距離が変わっている。

そとがわメソッドでいう観察点は、

こうした、

私たちがすでに経験していることを、

意識的に見ていくための考え方でもあります。


距離ができることと、反応を切り離すことは違う

ここでいう距離は、

反応を、

自分とは関係のないものとして、

切り離すことではありません。

不安も、

怒りも、

怖さも、

自分の中で起きています。

だから、

自分のものです。

ただ、

自分の中で起きているものと、自分そのものは同じではない

と見られる。

不安がある。

でも、

自分のすべてが不安になったわけではない。

怒りがある。

でも、

自分のすべてが怒りになったわけではない。

「私はダメ」

という判断がある。

でも、

その判断だけが、

自分のすべてではない。

反応を、

自分から追い出すのではなく、

自分の中にあるものとして見られる距離

です。


観察点は、「特別な場所」ではない

観察点というと、

冷静になれたときだけ存在する、

特別な位置のように聞こえるかもしれません。

でも、

そうではありません。

不安の中から見ている。

怒りの中から見ている。

「私はダメだ」

という自己像の中から見ている。

「嫌われるかもしれない」

という予測の中から見ている。

それも、

ひとつの観察点です。

私たちはいつでも、

どこかから、

物事を見ています。

だから、

反応の中にいるときにも、

観察点はあります。

違うのは、

その位置に気づいているかどうか

です。


そとがわにいることが、「正解」ではない

そとがわから見ている状態が正しくて、

反応の中にいる状態が間違い、

ということではありません。

楽しいとき。

悲しいとき。

怒っているとき。

夢中になっているとき。

私たちは、

自然にその体験の中に入ります。

それで構いません。

ずっと、

自分をそとがわから監視し続ける必要もありません。

必要なときに、

「今、どこから見ているんだろう」

と気づける。

そして、

必要なら、

別の位置からも見られる。

観察点は、

そのための考え方です。


アバターも、エゴのプログラムも、観察できる

ここまでの理論では、

私たちが普段、

「これが自分だ」

と感じているものを、

アバター

という比喩で見てきました。

そして、

そのアバターを守るために動く、

さまざまな自動プログラムの総称を、

エゴ

と呼びました。

反応の中にいるときには、

アバターの自己像や、

エゴの自動プログラムによって起きた反応が、

そのまま、

「私」

や、

「現実」

に見えることがあります。

でも、

観察点が移ると、

「今、

こういう自己像がある」

「今、

嫌われることを避けるプログラムが動いている」

「今、

失敗を危険として扱う反応が起きている」

と、

それらも、

見えるものになります。

アバターも、

エゴのプログラムも、

否定するために見るのではありません。

自分の中で何が起きているのかを、見えるようにするため

に観察します。


「本当の自分」を決めるための概念ではない

観察点について考えると、

「では、

観察している私は誰なのか?」

という問いが出てくることがあります。

そとがわメソッドでは、

その答えを、

決める必要はないと考えています。

反応しているのも自分。

考えているのも自分。

感じているのも自分。

それを見ているのも自分。

ここで扱いたいのは、

「本当の自分とは何か」

という存在論ではなく、

もっと実際的なことです。

今、どこから見ているのか。

そこから何が見えているのか。

何が見えなくなっているのか。

それを見るための概念が、

観察点です。


観察点が移ると、選択肢が見えることがある

反応の中にいるとき、

その反応に従うことしか、

見えないことがあります。

「嫌われる」

と思っているなら、

合わせるしかない。

「失敗したら終わり」

と思っているなら、

やらないしかない。

「怒られている」

と思っているなら、

謝るしかない。

でも、

その反応自体が見えると、

ほかのものも見えてくることがあります。

本当に嫌われるのか。

今、

現実には何が起きているのか。

私はどうしたいのか。

ほかに選択肢はあるのか。

反応が消えたからではなく、

反応との距離が変わり、反応以外のものも見えるようになったから、選択肢が増える。

そこに、

観察点という考え方の意味があります。


選択肢が見えたら、自分で選べる

観察点が移る目的は、

いつも、

自動反応とは違う行動をすることではありません。

反応を見たうえで、

同じ行動を選ぶこともあります。

安全な方を選ぶこともあります。

今日は、

いつものやり方でいい、

と選ぶこともあります。

逆に、

不安があっても、

違う行動を選ぶこともあります。

大切なのは、

反応があるから、それしかできない

という状態から、

反応も含めて見たうえで、

自分で選べることです。


観察点から、中庸へ

反応の中にいる。

↓

その反応を見られる位置へ移る。

↓

反応そのものはあっても、

反応との距離が変わる。

↓

出来事も、

反応も、

自分の状態も見える。

そのうえで、

そとがわメソッドでは、

中庸の状態から選択する

という見方につながっていきます。

反応をなくしてから、

選ぶわけではありません。

反応があることにも気づきながら、

その反応だけに、

選択を決めてもらわない。

反応の中にいる
↓
反応を見られる位置
↓
反応との距離が変わる
↓
中庸の状態から選ぶ

これが、

そとがわメソッドで、

観察点を扱う大きな意味です。


次に読む

自分の中で起きている思考や反応を、少し違う位置から見られることがあります。

すると、それまで「なくしたい」「こんな自分ではいけない」と思っていた反応も、自分の中で起きているものとして見えてくることがあります。

では、反応そのものと戦う必要がなくなっていくとき、何が起きているのでしょうか。

次は、そとがわメソッドでいう「統合」について見ていきます。


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自分を守ろうとして自動的に働く反応には、さまざまな背景があります。

そとがわメソッドでは、アバターを守るために働く自動プログラムの総称を「エゴ」と呼んでいます。


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「私はこういう人間だから」

「こうなるに決まっている」

そう感じていたものも、実際に起きたことと、自分の中で生まれた判断を分けると、違って見えることがあります。

反応をなくすことでも、いつも冷静でいることでもありません。

自分の中で何が起きていて、そこに何が重なっているのかを知ること。

そとがわメソッドの無料講座では、まず出来事と意味づけを分けるところから、人間の認識と反応の仕組みを説明しています。

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